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イスケ紛争

イスケ紛争は、リナエスト人の内部派閥であるイスケ派とそれ以外の間で起こった大移動の混乱をきっかけとする対立と、対立の結果起こったイスケ派の分離独立に伴う紛争である。

この紛争では小競り合いや官憲による暴力といった小規模な摩擦は発生したが、大規模な武力衝突は起きなかった。

背景

リナエスト人という概念はスキュリオーティエ期には既に存在したが、6500年という歳月の中で繰り返された離散と集合とともにその定義は大きな変遷を経験してきた。大移動を経た現代のpmcfではイスケ派とユシュケ派という大きな二つの派閥が存在し、前者は伝統の墨守と復古を、後者は伝統を継承しての絶えざる変革を唱えている。こうした違いは日々の食事や服装、行動様式といった生活のさまざまな点に表れていたが、大移動前の大陸では特に大きな衝突を起こすこともなく暮らしていた。

しかし、大移動により各種物資が著しく不足する中で、イスケ派が儀式に必要とする消耗品の供給が完全に途絶えてしまい、これに伴って儀式をどう進めるべきかという論争がイスケ派内部で生じた。この論争は政府への働きかけを行うということでいったんの合意を見たが、当時のリナエスト・オルス政府はユシュケ派がほとんどの要職を独占しており、ユシュケ派にとっては不要な消耗品を調達するような余裕はなかった上にそもそもリナエストの立地では調達しようにも当時国交のまだなかったユエスレオネのわずかな備蓄から輸入する以外になかった。こうした事情からイスケ派による要請は当然のように却下されてしまったが、イスケ派はこれをユシュケ派によるイスケ派の抑圧と解釈し、ユシュケ派に対するデモやストライキといった抗議活動が起こることとなった。

ところが、そうしたイスケ派の抗議活動は国内のユシュケ派の多くには「大移動に伴う混乱で皆が苦しんでいるにもかかわらず生存そのものには必須でない消耗品を求めて生産性を低下させる不届き者」として映り、両者の溝が深まることとなった。この結果リナエストでは生産性が激減し、イスケ派らしい生活の保障を求めるイスケ派、それらの要求を贅沢として疎むユシュケ派、生産性を高めようと抗議活動を取り締まるユシュケ派の政府という構図が形成された。生産性の低下と国民感情の分裂、そして少ない人類の可住地域に起因する少ないリソースという悪条件が積み重なったリナエストは、phil.2013年には、イスケ派と非イスケ派の深刻な断絶および原始的な漁業と地下資源の採掘程度しか育っていない産業、そして遅々として進まないモンスターの掃討という多くの解決困難な問題を抱える国となってしまった。

分離独立と宥和交渉

こうした状況の中で、phil.2013年9月30日、疎外と抑圧に耐えかねたイスケ派が「第三連隊」と呼ばれる脱走軍に率いられる形で分離独立を宣言する。「第三連隊」はイスケ派の多かったリナエストの第四師団からイスケ派を抽出するようにして形成された2500人前後の連隊であり、第四師団の装備の多くを持ち去っていた。分離独立したイスケ派はイスケ・リナエスト・オルス(ILO)と称してイスケ派が非イスケ派から受けていたこれまでの抑圧や差別を非難し、pmcf諸国やユエスレオネ連邦、およびアレークウィの国家に対して国家承認を要求した。

リナエスト・オルス政府ではこの内乱に対する対応をめぐって激しい争いが起こったが、ILOの実効支配領域が鉱業地域でありかつ首都に近すぎたことから利権なども絡み、最終的に鉱業地域に基盤を持ちイスケ派への確執が薄かったtarf.olfardiaがこの政争を勝ち抜いてリナエスト・オルス共和国総統の座に就いた。olfardiaは宥和方針に基づいた低姿勢な交渉を行い、ILOを国家承認したほか本人の希望に応じてのイスケ派のILO地域への送還や派閥間格差の是正を約束した。この宥和交渉はイスケ派の不満をある程度解消して無事平和裏に取り込み再び一つのリナエストとなることを見据えたものであった。

その後

宥和交渉は11月中旬まで続けられたが、地上への足掛かりを欲するユエスレオネ連邦が「在リナエスト連邦国民への危害が確認された」としてILO幹部の引き渡しを要求したことにより切り上げられてしまい、リナエスト内戦へと発展した。