リパライン語と言語行政と文化

連邦中央省 言語翻訳庁 少数言語保護機構


訳者より

 本書はファイクレオネにおける言語と社会の歴史から現代ユエスレオネの言語政策史を学ぶための参考書である。ファイクレオネで出版した文書の訳は国内ではそれ程活発ではなく、本書を含め「藍国統一机戦書」や「東島通商語入門」など少数に限られる。ETCAの規則によって国営郵便サービスの手続きが煩雑になっており、量を訳すということが難しいことや日本国内のファイクレオネ諸言語習得者が少ないということも関係しているのだろう。本書を基にファイクレオネやその言語に興味を持ったならば学んでみるのも一つ有用だろうと思う。

 なお、本書ではファイクレオネに詳しくない日本の読者のために国内で発表されている文献や作品に基づく注釈を一部追加している。追加箇所に関しては原著を参照されたい。本書を訳すにあたって私の専門であるリパラオネ史の範囲を超えるところに関して、理語学会の針谷諒太先生と益当和智先生からはラネーメ学の、同学会のSkarsna haltxeafis nirxavija氏からはリナエスト学の、総合創作界隈悠里中核会議議員のYuunaria=Yuugokku氏からはユーゲ学の、僚友大学創作学部教授のSoprren-Naptou教授にはギオンシャントヴェード学の諸助言を頂いた。この訳書を出すにあたり、ご支援いただいた寺松平治郎氏を始め、諸分野の専門家各位に厚くお礼申し上げる。

西暦2019年3月22日

由希半里

はじめに

 本書はリパライン語とその周りの言語との関係の間に発展してきた言語行政と文化の衝突を中心に取り上げ、現代に至るまでの軌跡を解説するものである。第一章では、ラネーメ王朝時代における言語と社会の関係について解説する。この時代ではリパライン語はまだ存在していないが、最初期のファイクレオネにおける言語と社会の関係について見ていく。第二章では、ADLP時代における言語と社会の関係について解説する。リパラオネ人による政治機関であるADLPが成立するとリパライン語計画が決定し、リパライン語という言語が成立していく。第三章では、南北帝政時代や宗教戦争時代の言語と文化について解説する。ADLP時代から解放されて言語ナショナリズムや古理語派が動き出し、次の時代での言語と社会の関係の破綻が準備されてゆく。第四章では、独立国家戦争時代の言語と社会の関係について説明する。前の時代で準備された破綻がこの時代に一気に出現することになる。この時代に起きた言語政策の失敗は後に大きな禍根を残した。第五章では、ユエスレオネ時代以降の言語と社会の関係を解説する。ユエスレオネではイェスカ政権及びユミリア政権が主導して様々な言語保障政策が確立していくが、このような理想的な政策とは裏腹にデュイン総合府やファルトクノア共和国、またPMCFの諸国では悲惨な言語状況が生まれることになった。

 我々、ユエスレオネの国民は長らく様々な局面で虐げられてきたが革命内戦によって全ウェルフィセルの世界に平和と安寧をもたらすべく連邦政府を樹立した。この平和と安寧は2003年憲法の規定する最高尊厳であり、言語行政の推進はその実現の一端を担っている。刻々と変わりゆくこの時代の中で読者がどのような関係を最良とするのかを考えるきっかけとなれば筆者一同幸いである。

連邦中央省 言語翻訳庁 少数言語保護機構


目次

訳者より        1

はじめに        1

目次        2

第一章:ラネーメ王朝とリパラオネの言語と文化        6

1.1. ラネーメ王朝の成立        6

1.2. 燐帝字母とリパラオネ諸言語        7

1.3. ヴェフィス語の共通語としての立ち位置        8

1.3.1. ヴェフィス語とラネーメ王朝社会        8

1.3.2. 古ヴェフィス語文語の成立        8

1.4. ラネーメ王朝末期の言語と社会        10

第二章:ADLP時代の言語と文化        11

2.1. ADLPの成立        11

2.1.1. ADLP成立概略        11

2.1.2. ADLPと旧ラネーメ領邦の言語問題        11

2.1.2.1 アレン・クランの「ヴェフィス語振興案」        11

2.1.2.2 ヴィヨック・ファルザーの「燐字整備案」        12

2.1.2.3 アレス・クラニヤの「現実的案」        12

2.1.2.4 ファフス・ザシミの「統治作業言語としてのリパライン語案」の成立        12

2.2. ADLPの内部抗争        13

2.2.1. 聖学会派と古理派の成立        13

2.2.2. 中理派の成立        13

2.3. スキュリオーティエ叙事詩の成立        14

2.3.1. スキュリオーティエ叙事詩の概要        14

2.3.2. ADLPとスキュリオーティエ叙事詩        14

2.4. 古典リパライン語の特徴        14

第三章:南北帝政・宗教戦争時代の言語と文化        15

3.1. 叙事詩の神聖化と変種の成立 ~5、6世紀~        15

3.1.1. スキュリオーティエ叙事詩とリパラオネ教        15

3.1.1.1. スキュリオーティエ叙事詩の神聖化        15

3.1.1.2 スキュリオーティエ文字の成立        15

3.1.2. 中世におけるリパライン語の発達        15

3.1.2.1. 中期リパライン語の発達        15

3.1.2.2. ユナ語とダイグロシア状態        16

3.2. 古理派の動きとサルシュナース文化 ~8世紀~        16

3.2.1. 古理派の計画        16

3.2.1.1 フォルシンソ計画        16

3.2.1.2. デュイン・ヴィッセンスタンツ反乱        16

3.2.1.3. デュイン北方に逃げた原住民の言語        16

3.2.2. サルシュナースと言語ナショナリズム        17

3.2.2.1 サルシュナース文化の興隆        17

3.2.2.2. 現地語宣教と言語記録        17

3.2.2.3. ラネーメ諸言語文字体系の成立        17

3.2.2.4. 言語ナショナリズムとサルシュナース文学        18

3.2.2.5 クローメと言語ナショナリズム        18

3.3. 活版印刷と言語ナショナリズムの現実化 ~9世紀以降~        19

3.3.1. 活版印刷と言語の標準化の始まり        19

3.3.2. ヴェフィス・ナショナリズムと『リパライン語』        19

第四章:イフトーン時代の言語と文化        20

4.1. 詩韻文復興運動、フィメノーウル的教法文学        20

4.1.1. エスポーノ・ドーハ        20

4.1.2. フィメノーウル的教法文学と詩韻文復興運動        20

4.2. 植民地支配と言語政策        21

4.2.1. 言語純化運動        21

4.2.2. 植民地言語教育        22

4.2.3. 東島通商語の成立        22

4.3. ラネーメ・言語ナショナリズム        23

4.3.1. ファスマレー国語化運動        23

4.3.2. ラネーメ族間言語対立と言語保護論・保護言語不在論の対立        23

4.4. Xelkenによるハタ王国人の拉致と言語浄化        24

4.4.1. ピリフィアー歴1620年以降の拉致        24

4.4.2. シェルケン・デュイン政権とユーゲ人        24

4.4.3. 言語消滅とサニス語の発生        25

4.4.4. スカメイ伝説        25

4.4.5. リパライン語への早期借用語の流入        26

第五章:エフトーン時代の言語と文化        27

5.1. 共和制時代の社会と言語        27

5.1.1. 共和制時代の成立        27

5.1.2. 共和制時代のアル・シェユにおける言語社会        27

5.1.2.1. ラネーメ民族党の成立        27

5.1.2.2 ラネーメ民族党と言語        28

5.1.3. 共和制時代のフェーユ・シェユにおける言語社会        28

5.1.3.1. LILCの提唱        28

5.1.3.2. 民族保守運動(CUFL)の主張        29

5.1.3.3. 穏健派Xelkenコミュニティの成立        29

5.1.4. 共和制時代のクワク・シェユにおける言語社会        30

5.1.4.1. クワク共産主義の言語政策方針        30

5.1.4.2. クワク主義的単一言語政策への批判と支持        30

5.2. ユエスレオネ本土の社会と言語        31

5.2.1. 革命とイェスカと言語政策        31

5.2.2. 2003fと計算機開発・言語監査特別委員会と標準化        32

5.2.3. 公共性を担保する言語としてのリパライン語標準化        33

5.2.3.1. リパライン語標準化の必要性        33

5.2.3.2. デュテュスン・リパーシェの正書法        33

5.2.3.2.1. 文字順        33

5.2.3.2.2. rer綴り問題        34

5.2.3.2.2.1. 枝のrer        35

5.2.3.2.2.2. 伝統的方法        36

5.2.3.2.2.3. xelkenのrer        37

5.2.3.2.3. 語源派正書法と表音派正書法の対立        38

5.2.3.2.3.1. リパライン語の文字史と綴り問題        38

5.2.3.2.3.2. 語源主義と表音主義の由来        39

5.2.3.2. 簡化語(人民語)運動        40

5.2.4. 国会と教育国語標準化施策        41

5.2.4.1. 言語集中政策の策定        41

5.2.4.2. ユエスレオネ連邦における言語法規定        42

5.2.5. ユエスレオネ市民社会での言語社会的動向        43

5.2.5.1 ユーリエン学説と国際補助語        43

5.2.5.2. 「人を殺すフォント」と「人を殺す不統一」        44

5.2.5.3. 統合のためのリパライン語教育        44

5.2.6. ユエスレオネ現代文学        45

5.2.6.1. 詩文自由運動からレスバスカラスタン運動まで        45

5.2.6.2. 国際的青年文学        46

5.2.7. 現代メディアにおける移民風リパライン語        46

5.2.7.1. 移民風リパライン語の成立        46

5.2.7.2. 移民風リパライン語の特徴        47

5.2.7.2.1. 逆流語の多用        47

5.2.7.2.2. リパライン語の方言・近縁語の混用        48

5.2.7.2.3. 文法的逸脱        49

5.2.7.3. 役割語としての移民風リパライン語とその評価        50

5.3. デュインの言語と文化        51

5.3.1. デュイン史と言語        51

5.3.1.1. デュイン総合府の成立        51

5.3.1.2. xelken.alesの台頭とデュイン・アレス独立戦争        51

5.3.2. 民族語の教育言語化とその失敗、欺瞞と解決        52

5.3.2.1. デュインにおける母語教育政策の推進        52

5.3.2.2. 母語教育政策の批判と廃止まで        53

5.3.2.3. 母語教育政策停止の欺瞞と回復        54

5.3.3. 民族語と移民語の個別発展        55

5.3.3.1. デュイン・ユーゴック語と本土・ユーゴック語の衝突        55

5.3.3.2. デュイン先住民諸語の標準化        55

5.3.3.3. 古典リパライン語の標準化        56

5.3.3.3.1. 古典リパライン語の言語保障問題        56

5.3.3.3.2. 標準古典リパライン語の成立と反対運動        56

5.3.3.4 共通語としてのデュイン方言        57

5.4. ファルトクノアの言語と文化        57

5.4.1. ファルトクノア史と言語        58

5.4.1.1. ファルトクノア共和国の成立        58

5.4.1.2. 苛烈な連邦化政策の様子        58

5.4.1.2. 連邦化政策による言語差別とその理論化        60

5.4.1.3. 教育言語としての標準リパライン語導入の失敗と内戦        60

5.4.1.4. 戦後政権による言語保障復興        60

5.4.1.5. 終わらない文語と口語の大きな乖離        61

5.5. PMCFの言語と文化        61

5.5.1. PMCF成立と議会言語騒動        62

5.5.1.1. 東諸島共和国連合の成立と言語行政方針        62

5.5.1.2. PMCF議会言語問題        62

5.5.1.3. カーダン通訳事件と議会言語議論の対立        62

5.5.2. 各国における言語政策        63

5.5.2.1. アイル共和国における言語と社会        63

5.5.2.1.1. アイル語の強要と反発        63

5.5.2.1.2. 連邦政治難民の流入と言語保護のための戦い        63

5.5.2.2. ヴェフィス共和国における言語と社会        65

5.5.2.2.1. ヴェフィス共和国における言語政策        65

5.5.2.2.2. ブルミエント・チャウデ語の抵抗運動        65

5.5.2.2.3. リパライン語化するヴェフィス語と抵抗意識        66

5.5.2.3. リナエスト・オルス共和国における言語と文化        67

5.5.2.3.1. リナエスト・オルス共和国における言語政策        67

5.5.2.3.2. リナエスト言語政策革新派        67

5.5.2.3.3. リナエスト言語政策保守派        67

付録        67

人名索引        67

事象索引        69


第一章:ラネーメ王朝とリパラオネの言語と文化

1.1. ラネーメ王朝の成立

 リパライン語が話されるファイクレオネの地で、言語的利害が発生し始めたのはリパラオネ人による王朝であるカーイハエ文明がピリフィアー歴紀元前5142年に滅び、ラネーメ人によって出来上がったラネーメ王朝(アレス王国)が最初であった。大陸の西側を支配したラネーメ人王朝は支配下にある民族の多様性をどのようにコントロールするかで崩壊まで悩み続けることになる。

 カーイハエ文明が崩壊した理由は考古学研究によっても良く分かっていない。「崩壊した」という言い方もタカムア・セマムカ(Takamua.cemamuka)による王朝時代の歴史書「ラネーメ古論」[1]に基づくもので、リパラオネ人王朝がラネーメ人によって劇的に崩壊させられたかどうかは明確ではない。リパラオネ人王朝によって支配を受けなかった独立都市国家群であるカルチリアン(kalchili’ang)がラネーメ王朝の成立後にもそのまま残っていることもリパラオネ人王朝が崩壊したことに疑問を投げかけている。このために、クァ・フォ・シリザフなどの研究ではリパラオネ人王朝は崩壊したのではなく、ラネーメ人がその王家を継承していて国家が成長してゆくうちにヴェフィス人やラネーメ王家の血統主義によってその事実を認めることが出来ずにラネーメ人がリパラオネ人の王朝を滅ぼしたためにリパラオネ王家とは違う血統であるということを明確にしようとしたとする見方が強い。

 傍証として、初期のラネーメ王朝ではリパラオネ人の力が弱かったというわけではなかったという事実がある。ピリフィアー歴紀元前5123年における一代目皇帝のアレス・アタツァニアター(ales.atazani’atar)によってリパラオネ教が政治指針として採用されるなど、親リパラオネ教政治が初期から推進されていた。ラネーメ王朝の近辺に住まうリパラオネ人コミュニティは遊牧民で、ラネーメ人とは交易を頻繁に行っていた。

 リパラインを表す”lipalain”という単語は古典リパライン語の時期から使われているが、語源はlipha(暗黒)+limi(道)であるとされている。この内のliphaは祖語では、古い存在動詞である*liəと*phaという形態素に分けられる。*phaはラネーメ祖語の*phed[2]から来ているとされる。他にも[*kəl](現代語のkranteなど)と*kur3a(旧*kuran)などラネーメ諸語とリパラオネ諸語の一部の基本語に類似したものが多い。このような基本的な語彙に影響していることから古代からリパラオネ人とラネーメ人の交流は活発であったとされる。

 初期のラネーメ王朝における言語状況は明確には分かっていない。王朝が成立した直後の殆どの記録はラネーメ表意文字によるものであり、燐帝字母との対応などから大まかな意味は分かるものの音声言語との対応が良く分かっていない。

 ラネーメ王朝が成立している一方でリパラオネ人の一部は大陸の東側や北のクワイエ大陸の方向へと移住している。西リパラオネでは古代リパラオネ哲学(ルラディヌアル, rladinual)が発達し、東リパラオネでは理教東方教団による社会秩序が成立した。以降、西側では貴族共和制が成立し、東側では王家政権が成立した。ルラディヌアルも東方教団も後世のリパラオネ教徒によって多くの文章が焚書され、当時の言語状況は詳しくは分からなくなっている[3]


1.2. 燐帝字母とリパラオネ諸言語

 アレス王朝で使われていた表意文字体系は大量の異体字が発生しており、遠距離間での情報伝達は困難を極めていた。このような状況からピリフィアー歴紀元前5122年、二代目皇帝アレス・リン(Ales.lin, 燐帝)は文字を整理した[4]。アレス・リンによる文化振興政策は実行を伴ったもので、これ以前に使われていた複数の表意文字体系(ラネーメ表意文字やそれから派生したアイル・パイグ文字)から簡便なものを引き出し、異体字や表記法を整理した。これが燐帝字母と呼ばれる文字である。

 燐帝字母では字音も制定していたが、音声言語を容易に変えることは出来ず、アレス・リンによる統一字音は普及しなかった。しかし、従来識字層が非常に限られていた表意文字群を簡易化した燐帝字母は従来の非識字層へも広がり、様々な言語で使われるようになった。

 燐帝字母が制定された時期の古リパライン語もすぐに燐帝字母を取り入れてリパライン語を書くようになった。

 本来リパライン語は、ラネーメ表意文字で書かれていた。このラネーメ表意文字はラネーメで主に多く見つかったためにラネーメ表意文字と呼ばれているが、複数の表意文字体系の総称である。これらのうちの幾つかの種類の表意文字体系はリパラオネ諸言語の表記に用いられていたのであり、古リパライン語もラネーメ表意文字の一種を用いたルラディヌアル哲学やフィメノーウル信仰の断片的記録が残っている。これらは燐字とラネーメ表意文字の関係を証明した燐字学の成果によって、後の時代の燐字ロライヘル文字混じり書き時代での綴りが同じことなどから解読されている。

 アレス・リンが燐帝字母を制定してからは、燐帝字母とロライヘル文字と呼ばれるラネーメ表意文字から派生した音節文字を用いて交ぜ書きがされるようにされた。しかし、殆どの表記は燐帝字母でなされた。

 リパライン語の燐帝字母表記には幾つかの特徴がある。まず、字に対応する単語や熟字訓(一文字単位ではなく複数の字に読みを当てた特別な読み)が多いことである。例えば、という字はリパライン語では”tharm”, “tonir”, “alefis”, “xert”, “cukalmrei”などで読まれる。またという文字列は”lipalaoneer”と読むが、それぞれの文字は”lipalaone”、”larta”と読む。これらの理由としては、まず燐帝字母の制定がアイル人やパイグ人を中心としたラネーメ族の文字利用を基軸として行われたことがある。それまでリパラオネ人が用いていたラネーメ表意文字変種は燐帝字母の制定によって取って代わられたが、その際に多くの文字が削ぎ落とされたために単字や熟字に多量の単語が訓読として当てられるようになったのであった。

 次に、動詞時相や名詞の格などの語尾の表記上の脱落である。後世の旧リパーシェなどによる表記に見られるように古リパライン語は格接辞や動詞の時相語尾が存在しているが、燐帝字母ロライヘル文字混じり書き時代においてはこれらはあまり表記されない。格接辞は完全に無表記の文献なども見つかっており、これはパイグ語や燐帝字母表記のアイル語などの影響を受けているものであると考えられている。

 ヴェフィサイト体制が制定されていないラネーメ王朝初期においては、ファスマレー語やその近縁の言語を領邦間交流に用いていた。


1.3. ヴェフィス語の共通語としての立ち位置

1.3.1. ヴェフィス語とラネーメ王朝社会

 ピリフィアー歴紀元前4504年以降、スキュリオーティエ時代に入ると各地方領の権力が強くなり、各地での自治力が強くなり始める。自治力の拡大とともに各領邦における言語の流動も収まり始めることによって燐帝字母によるコミュニケーションは国際的文語として確固たる地位を持つことになった。しかしながら、口語として国際的地位を持つ言語はレフィアリー体制(ヴェフィサイトと各藩国の藩主の封建体制)が確固たる地位を占めるまで決まることは無かった。つまるところ、領邦ごとの言語がそのまま保持されるようになっていった。民族と言語を同一視することはここが発端である。

 スキュリオーティエの時代に入り、レフィアリー体制が一般的になると特定の領邦における支配民族との関係がないことやヴェフィス人によって構成されるヴェフィサイトがどの領邦にも居ることも後押しとなって、ヴェフィサイトとなるヴェフィス人の言語であるヴェフィス語が口語としての国際的な言語としての地位を占めるようになった。ヴェフィス人によるヴェフィサイト家が外交にも手を出すようになると、燐帝字母によって書かれるヴェフィス語が国際的な地位を占めるようになった。ラネーメ王朝内で領邦間言語となったヴェフィス語は、各国のヴェフィサイト家のみだけではなく藩国貴族によっても学ばれた。スキュリオーティエ時代の終盤に至るまで、藩主の教養として取り上げられていた。

1.3.2. 古ヴェフィス語文語の成立

 ヴェフィス語は屈折語的言語であり、語形変化によって名詞の格や動詞の人称・時相を表す。しかし、第二節で述べたリパライン語の燐帝字母ロライヘル文字混じり書きのように燐帝字母で表記される時は語形変化が全く表されない。このために、古ヴェフィス語の文語では語形変化する語尾が全て脱落し、下の表のように語尾が脱落してeになった。なお、wellaitoiléがwellaitoileになっているように本来の辞書型語尾が過剰修正されている場合も多い。

「戦線ではウェールフープを使うことは出来ない。」

古ヴェフィス口語 Lires cieny ne vaiufalfaile ats wellaitoilé.

古ヴェフィス文語 Lire cieny ne vaiufalfe ats wellaitoile.

 ヴェフィス語を通してラネーメ人貴族家が信仰していた皇信仰や土着信仰、フィメノーウル信仰に関する書物が広く流通した。当時成立したアレス法制システムも領邦間で行われるものは殆どが燐帝字母によるヴェフィス語によって取引がされている。皇帝もヴェフィス語が幾らか話せる者が多かった。

 特に文語としてそれまでラネーメ諸語を用いていた母語話者でない書記官による特徴的な表現は、古ヴェフィス語の文語に雅趣に富んだ表現として多く取り入れられた。例として、「作り方」は古ヴェフィス語口語では”ailyries var androis”と表すが、文語では”andre de fe”(現代語で表すなら”androis de fas”)と表され、これはパイグ語の(sui1 sit1)に近い。

・燐帝字母漢字転写

五十星六月

此傷大王而兄加父入而此認

而王心将等目軸

・古ヴェフィス口語

Celcoiné saisieit mecieit fettaut, Le qais faissedes pafaioum Çhanthaile Ateseit soilé fainiessé mait faisé dedes. Mait, le qaile poumedous soilé Çhanths Ateseit ficaidén. :çhanthssé jais pa noblaile.:

・古ヴェフィス文語

Celcoine saisie mecie fette, Le qe faisse pafaioum Çhanthe Atese soilé fainies mait faisé dede. Mait, le qe poume soilé Çhanthe Atese fice. :çhanthe jais pe noble.:

Falira(2018)による解読


1.4. ラネーメ王朝末期の言語と社会

 ラネーメ王朝におけるヴェフィス語の国際的な利用が止まってきたのは、4470年頃からである。4490年から始まる王朝領邦の南北分離戦争がユフィア・ド・スキュリオーティエによって鎮圧され終結すると、皇帝の力は既に弱化していた。逆にリパラオネ教のフィアンシャなどの権威が強くなり、領邦ごとに民衆の支持を得ていった。リパラオネ教徒による多神教徒に対する激しい敵愾心はヴェフィス人への反感へと向かい王朝では彼らへの迫害傾向が高まっていった。ピリフィアー歴紀元前4478年には、フローシア・ド・スキュリオーティエ・フロリシアによって『ヴェフィサイトに対する心情的憎悪の拡大』が著された。 最大の破局は、4476年にスキュリオーティエ家とヴェフィサイティエ家の従属ヴェフィサイトがヴェフィサイト家長の指示なくリパラオネ教の総本山ともいえる教会のフィシャ・フォン・フィアンシャを襲撃し、教祖であるフィシャ・レシェールを殺害したことである。最終的にこの事件はアレス・ラネーメ家従士スキュリオーティエ家、アレス・レヴィア家従士ヴェフィサイティエ家の攘夷維新派とアレス本家従士エスタイティエ家、アレス・エストヴァツァ家従士エサイティエ家による王権保守派、中立ホールフォーティエ家、テード・ガンモーノ軍傭兵デヴァニエ家による神権保守派のヴェフィサイト権力と社会状況に基づく三大派閥の対立を生み、再び王朝全体がファリアガード戦争の中へと陥ることになる。

 この状況の中で民族と言語が大まかに一致するという考えは、王朝全体からのヴェフィス語の排斥へと繋がってゆく。

 ファリアガード戦争の真っ只中の4473年に皇帝アレス・フヅミは領邦間での燐帝字母ヴェフィス語書簡を次のような布告を出して禁止した。

  1. 燐帝字母によって書かれるヴェフィスの言葉は現在領邦間での書簡に広く用いられているが、諸国行脚ではリパラオネ教を信仰しない者の言葉を統治者である貴族が用いるのは良くないのではないかとの声が民衆から聞かれる。
  2. 王朝はリパラオネ教法によって統治されているものであり、リパラオネ教をヴェフィスの言葉で語ることは出来ない。
  3. また、民衆がヴェフィスの言葉で話されてもしょうがないのであって、互いの邦の繋がりを持とうとするものはその邦の言葉を話せるものを登用しなければならない。
  4. 今後、皇帝領との一切の書簡はラネーメ語(詳細不明)で行う。

 最終的にファリアガード戦争は領邦がお互いの領土を尊重し、内政干渉を止めることを約したサーム条約によって4465年に終結する。この時成立した公国はシェルトアンギル公国以外、ヴェフィス人のヴェフィサイトを排斥したために事実上ヴェフィス語の国際語としての立場はここで終わることになってしまった。各公国はリパラオネ教会による影響も嫌っていたが、独立性が向上したことは民衆による地域のリパラオネ教会への支持を上げてしまう結果となってしまっていた。また、各国独立した司法制度の成立も基礎はアレス司法制度であったため、文献はラネーメ諸言語であった。これらの複合的原因が後押しとなってヴェフィス語の国際的な利用は急速に消えていったのであった。

 それまで各国がヴェフィス語で書簡を送り合っていたのに対して、新しく国際語を模索しなければならない状況が長らく続いた。公国によっては幾つもの言語を使い分けなければならない状況も生まれ、国際関係は混迷を極めた。結果的には元々広く使われていたラネーメ諸語を使うのが一般的であったが、それでも地域によって全く違う言語を使っている場合もあるなど効率的な外交を行うことが出来なかった。


第二章:ADLP時代の言語と文化

2.1. ADLPの成立

2.1.1. ADLP成立概略

 ピリフィアー歴紀元前1998年、リパラオネ人を中心とした全国支配を目的とした機関「リパラオネ族学会」(Akademice lineparine)がラネーメ王朝を破壊し、ファイクレオネ全国を支配することになった。ADLPは、元はフィシャ・フォン・フィアンシャにいるシャーツニアー10名とアロアイェールによって立ち上げられたフィアンシャを中核とした自警団であったが、年々とその内部から王国や他国の政治に干渉するようになり、アロアイェールが各地の政治機関、王族直轄機関の破壊を指示し、反逆する貴族やヴェフィサイトを圧倒的なウェールフープによる戦力によって破壊しきった。後に東西のリパラオネ人勢力と共にファイクレオネ全国を平定しフィアンシャを中心とした地域区別を制定、フィシャ・フォン・フィアンシャを最高政治機関と位置づけることとなった。

 ラネーメ王朝ではウェールフープによる戦力が洗練されておらず、また伝統的な宗教で長らく禁止されていたということが敗因であったとされている。

2.1.2. ADLPと旧ラネーメ領邦の言語問題

 ADLPは統治全域における言語がバラバラであり、その統治に支障が出るということでこの言語問題の解決を望んでいた。だが、当時使われていた言語に対してどれか一つを取り上げて統治言語とするには政治的問題が残るために、どうするのかはADLPの中では方向性が決まらなかった。

2.1.2.1 アレン・クランの「ヴェフィス語振興案」

 最初にこの問題に言及したのは、ADLPの言語委員会の一員であったアレン・クランの「ヴェフィス語振興案」であった。この案は、ピリフィアー歴紀元前1998年にADLPの総会に提出されたもので統治言語としてヴェフィス語を採用するのが良いと推薦するものであった。推薦理由としてアレンは以下の三つを挙げている。

  1. ラネーメ全域でヴェフィス語は国際語として広く使われていたという実績がある。文語としての規範はここに依ることが出来る。
  2. ヴェフィス語は現時点でヴェフィス人が話しているのであって、口語の規範はここに依ればよい。
  3. ヴェフィス語はリパラオネ人の話す言語のいずれにも近いものであるので、ADLPが掲げる統治原則に沿う。

 しかしながら、この案は旧ラネーメ諸方に住む人達やフィシャ・フォン・フィアンシャを含むリパラオネ教勢力などに強烈に反対を受けた。前述の通り、非リパラオネ教徒の言語として領邦間の利用を忌まれていたヴェフィス語を再度世界を統治する言語として採用するのはあまりにも受け入れがたいものであった。


2.1.2.2 ヴィヨック・ファルザーの「燐字整備案」

 アレン・クランがヴェフィス語振興案を出した当時、同じく言語委員会のヴィヨック・ファルザーはADLP言語委員会の審議に「燐字整備案」を提出した。皮肉にもヴィヨック・ファルザーはアレン・クランを完全に糾弾する形としてこれを提案している。燐字整備案は燐字表記を標準化することによって、各言語が燐帝字母を通してある程度通じ合えるようにすることである。以下がヴィヨックの挙げた推薦理由である。

  1. 特定の言語を採用することは教育環境を整える必要がリパラオネ人側で増すために不都合がある。
  2. 燐字は字との対応を各言語で決定すれば良いのであって、各言語の中間体としても働く。
  3. 燐字は言語依存に使われてこなかったことから、各言語の中間体としての発現の訛りを元に、多言語のさらなる教育への発展も望める。

 だがこの提案もADLP言語委員会によって却下された。理由として、そもそも燐帝字母自体がラネーメ人によって生み出されたものであるためにADLPの統治原則であるリパラオネ人優先主義に合わないということがあった。また、アレン・クランが後に糾弾している通りそもそも教育環境を整える必要があるのは燐字もヴェフィス語も旧ラネーメ王朝で使われていたために同じようなものであると主張されたためでもある。燐字が言語依存でないという主張に対してもリパラオネ側から疑念が多く、却下への運びは早かった。

2.1.2.3 アレス・クラニヤの「現実的案」

 アレン・クランとヴィヨック・ファルザーによる案の闘争がなされた二ヶ月後には、ADLP総会から言語政策の決定の遅さを糾弾するものが出てくる。ADLP法制部のアレス・クラニヤは言語委員会が大げさな言語政策を提案することに対して否定的な見方を示した。そもそも世界全体を一つの言語的規範によって制御することは多様な不確実性の要因によって不可能であるということは旧ラネーメ領邦におけるヴェフィス語の国際語としての崩壊から分かりきったことであると主張した。

 アレスの出した案は、全国の言語を統一せず地域政府ごとに共通語を制定することによって衝突をなくし、またADLPの労力を出来るだけ減らそうという考えだった。

 この考えもADLPの政治部門によって強力に否定された。ADLPはリパラオネ人を中心にした政治的目的を果たせないことでアレス・クラニヤの案を却下した。

2.1.2.4 ファフス・ザシミの「統治作業言語としてのリパライン語案」の成立

 特定の民族語ではなく、ADLPの政治的目的を達成でき、労力も少ない対案としてピリフィアー歴紀元前1999年にアディア言語開発研究所のファフス・ザシミによって提案されたのが「リパライン語」案であった。

 まず、リパラオネ人の多数の言語を一つの人工的な共通言語として統一することで共通標準語であるリパライン語を全国で使うことであった。ADLPの政治部門も言語委員会もこの計画に強く賛同する形を見せて統治作業言語としてリパライン語を作ることが始まることとなった。それまで存在しなかったデュテュスンリパーシェ碑文体による正書法が制定され、単語も複数存在したリパラオネ人の口語表現も統一されることになった。

 こうして人工的に成立した言語が現代標準リパライン語と同縁関係にある古リパライン語である。


2.2. ADLPの内部抗争

2.2.1. 聖学会派と古理派の成立

 リパライン語計画が成立するとADLPの総会は二大勢力に分かれることになる。ファフス・ザシミを中心として創設した古理派(Xelken)とヴィヨック・ファルザーの姉であり、ADLP言語委員会所属のヴィヨック・エレーナが創設した聖学会派(Akademice)である。この二つの派閥はADLPによる治世が滅びた後も全国に強力な影響力を残すことになる。

 聖学会派は漸進的にリパライン語の開発を進めることによって言語を人工的に改善していくという思想を持っており、古理派と対立していた。古理派自身は、リパライン語は定義した時点で共通で、誰にとっても平等な完全言語として成立したのであり、またADLPの政治方針を満たすためには純粋にリパラオネ人の魂を持ち続けている必要があると考えていた。

 このような強い言語ナショナリズムは後世にも受け継がれることになり、小説にも次のように明確に現れている。

「・・・私は、小さい頃から、リパライン語は神が創り出した崇高な言語だって父に教わってきたの」

「でも、父はリパライン語が民間人の間で使われていない事に対して、かなり憤っていて、リパライン語を使わない奴らは皆死ねばいいとまで言い出したの」

(中略)

「おかしいと思った。いくら何でも、それは変だって思った。だから、そう父に言ったら、そんな奴を育てた覚えは無い、出ていけ、って言われたの」

「Kranteerl y io xal」, #4

 強い保守的・差別的思想を持った古理派は、ADLP総会では抑制されていた。つまり、ファフス・ザシミによって双方の派閥が調節されていたことによって議会の安定は保たれていた。しかしながら、古理派はこれに対してファフス・ザシミがADLP議会を支配しているという陰謀説を提唱し、ADLP議会からこれを追放した。また、古理派の一部はファフスの圧力が無くなったために過激派であるXelken.valtoalに分化した。この責任を取る形で古理派は糾弾され、ADLP内での影響力を無くしていくことになった。

2.2.2. 中理派の成立

 xelken.valtoalの成立前夜、ファフス・ザシミは追放されてもなおADLP議会へ影響力をもたらすことを諦めずにマイネストゥーロ・ファイスクレオネーを擁立し傀儡として中理派(Maonestulie)を成立させた。リパライン語を中立的な視点で、ADLPの政治的方針と先進性を両立させながら発達させていくということを主張している派閥であったが影響力は小さかった。古理派や聖学会派は言語以外にも政治に手を出すのに対して、中理派はリパライン語の言語行政のみに触れていた。しかし、ADLP末期においては幅を利かせる聖学会派に対して牽制を行うために町を焼き払うなどの行為を行ってこれが発覚することによってADLP議会における地位を更に下げることになった。


2.3. スキュリオーティエ叙事詩の成立

2.3.1. スキュリオーティエ叙事詩の概要

 ADLPの時代には、後世に多大なる影響を与えるリパラオネ人の民族叙事詩が成立した。それがスキュリオーティエ叙事詩である。

 リパライン語詩の源流となるスキュリオーティエ叙事詩は、ADLPによって許可を受けたヴェフィス人であるアテニア・ド・スキュリオーティエ・アリテが編纂した口承伝承詩集である。このころの詩に関しては、文章に残されているものでも殆どが失伝しているが、そういった環境の中でアリテはこれらをまとめて、詩集としたのであった。アテニアが主題としたユフィア・ド・スキュリオーティエ・ユリアとレチはアテニアから見て古代の人物である。ユリアが活躍した時期は紀元前ピリフィアー4450年ごろであり、レチが活躍した時期はもっと前の紀元前5000年ごろからユリアの活躍した時期に被るくらいであるが、それにしてもアリテが生きた時代からは紀元前4000年ほど前のことであり、これらの伝承をまとめ、それに加えて美しい詩を集めた諸詩や文法詩の存在はスキュリオーティエ叙事詩がこの時代において伝統的な詩をまとめた高価値の文学作品であることが分かる。

 実在の人物であるユフィアが実際に叙事詩のような人生を辿ったかどうかについては諸説あり、リパラオネ教上では史実として扱われるものの、考古学的・ウェールフープ学的な研究では否定的な意見が多い[5]

2.3.2. ADLPとスキュリオーティエ叙事詩

 スキュリオーティエ叙事詩の記述はADLPによるリパライン語の規範にはならなかった。これはADLPの政治的方針がスキュリオーティエ叙事詩のヴェフィス人中心のラネーメ王朝の美化を許さなかったこともあるが、人工的に構成されたリパライン語に対してスキュリオーティエ叙事詩が口伝を再編したものであって粗野に聞こえる表現が多かったからであるとされている。これは現代までXelkenコミュニティが用いている現代古典リパライン語にスキュリオーティエ叙事詩由来の慣用句が少ないことからも理解できる。

 なお、スキュリオーティエ叙事詩がリパラオネ教の教典として受け入れられるのはピリフィアー歴紀元後八世紀になってからであり、完成した直後はそれほど有名な存在でもなく。リパラオネ教の宗教的意味もあまり持ち合わせていなかった。

2.4. 古典リパライン語の特徴

 ADLPが整理した最も古い時代のリパライン語には動詞・名詞の語尾変化が残存していた。この後の中期リパライン語や現代標準リパライン語にはこれは残っていないが、同じリパラオネ語族に属するヴェフィス語にはこれが由来の動詞・名詞の語尾変化が残っている。

 古典リパライン語では、一人称、二人称、三人称、物、一般名詞の5つの人称と現在進行、過去、未来の三つの時相に従って変化語尾が付いた。人称代名詞も現代語とは異なり、格で曲用する。格接辞は一般名詞に付けられたが、現代語のように省略されることはなかった。現代語の文語とは異なり、支配的語順は主語・主動詞・目的語であった。この時代の接置詞は基本的に後置詞であり、前置詞が現代語で多数になったのはヴェフィス語や口語の語順変化の影響である。


第三章:南北帝政・宗教戦争時代の言語と文化

3.1. 叙事詩の神聖化と変種の成立 ~5、6世紀~

3.1.1. スキュリオーティエ叙事詩とリパラオネ教

3.1.1.1. スキュリオーティエ叙事詩の神聖化

 南北帝政時代に入ると帝国が興隆し、世界は二分されるが、600年ほどからの戦争により分裂した国々は疲弊し、世俗権威がリパラオネ教宗教権威に政治権力を明け渡す事態となる。811年、ここからラネーメ独自の信仰を持ち帰ったイェクト・ユピュイーデャが元となりサルシュナース文化と呼ばれるフィアンシャ権威へ対する対立文化が始まる。これに対してリパラオネ教権威は偉大なリパラオネ教教典文学としてのアンポールネムとファシャグノタール(faxagnotarl)を擁護するのであるが、このなかでスキュリオーティエ叙事詩の預言性に気づく宗教家が出てくる。サルシュナース文化に対する対立構造の中でスキュリオーティエ叙事詩はリパラオネ教徒の叙事詩としての地位をここで確立することとなり、少しづつリパラオネ教文化圏全体へとファイクレオネの人口に膾炙する作品として定着したのであった[6]

3.1.1.2 スキュリオーティエ文字の成立

 スキュリオーティエ文字はスキュリオーティエ叙事詩に使われる文字である。アテニア・スキュリオーティエ・アリテはADLP成立後のファイクレオネにおいてデュテュスンリパーシェ碑文体でスキュリオーティエ叙事詩を編纂したが、これらの作業を行ったヴェフィス人古典学者はその多くが高い位にいる貴族であった。この貴族らは当時使われている文字より、ロライヘル文字を利用して書くことが教養ある階級上位の人間の筆記であると思っていた。このために最初期はスキュリオーティエ叙事詩はこのロライヘル文字によって書かれていた。しかし、このスキュリオーティエ叙事詩が爆発的な文献的人気をリパラオネ教社会で得るにつれて、この筆記は庶民にも広がるようになっていった。庶民に広がるにつれて、ロライヘル文字で書かれていたスキュリオーティエ叙事詩はだんだんと文字を変化させていき、カンティレーションなどの要素を取り込んで発達した[7]

3.1.2. 中世におけるリパライン語の発達

3.1.2.1. 中期リパライン語の発達

 ADLPによる政治支配が崩壊したのと同時に、全国的に行われていた言語政策は崩壊した。ADLPの先導する言語規範は複雑なリパラオネ諸言語の調整であったが、この言語規範から解かれた古リパライン語は簡易化へと向かった。

 代名詞の格変化は無くなり、一般名詞の格語尾が主格形に付くようになった。動詞変化も消滅して、元々無動詞文の時相を表していたwioll(未来)、edioll(過去)、liaxa(完了相)、liaxi(起動相)、liaxe(直前相)、liaxu(持続相)が一般化して定着した。


3.1.2.2. ユナ語とダイグロシア状態

 現代標準リパライン語に繋がるユナ語派は従来の伝統的なリパライン語学の系統研究においては古典リパライン語から派生したといわれている。しかしながら、ユナ語は既にこの時期から派生が起きていたとする学説も多い。ヴェフィス語において古語である時期から古ユナ語に近い音韻変化が起こっていた。このために中世におけるリパラオネ族の口語は古ユナ語に近いものであったと考えられている。文章語でユナ語が残ってないのは、口語やそれに近い言葉で文章を書くという風習がなかったためである。

3.2. 古理派の動きとサルシュナース文化 ~8世紀~

3.2.1. 古理派の計画

3.2.1.1 フォルシンソ計画

 八世紀に入るとXelken.valtoalは独自の軍事力とウェールフープ学の進歩に基づいて、ファイクレオネの外部に出ていってデュインを征服し、原住民を支配して古いリパライン語を教えることでこれを存続させるという計画を実行することになった。現地の原住民であるヴィッセンスタンツ人やリスターメ人、ファーシュヴァ―ク人などの一部はxelken.valtoalの支配を受けて自分たちの言語を失った。

 ピリフィアー歴807年にデュインに成立したシェルケン政権は、フォルシンソ計画と呼ばれる都市計画を実行した。ネートニアーをファイクレオネなどから拉致し、拉致したネートニアーは古理語やリパラオネ教の再教化を行い、最低五ヶ月の収容所生活をさせた。収容所生活の後に最小自治単位フィオン(fhion)に民族や母語が被らないように配置することで古リパライン語のみでしか意思疎通を行うことができなくなった。

3.2.1.2. デュイン・ヴィッセンスタンツ反乱

 ピリフィアー歴809年、ヴィッセンスタンツ人であるサニス人であるコンダーファフィス・ファーヴィヤ(サニス語名:シセル・スイツマディン)はフォルシンソ計画に基づく苛烈な都市計画に不満を持った同じフィオンの人間と共に古理派の人間に反乱を起こした。この反乱自体は単なる失敗に終わったが、重要なのは古理派によるその反乱自体とその後の首謀者たちの調査記録である。

 皮肉なことに同じフィオンの人間をコンダーファフィスがまとめ上げる際に使ったのは古理語であった。ヴィッセンスタンツ人やリスターメ人、ファーシュヴァ―ク人、そして拉致された多言語を喋る人間たちはこの反乱が起きるまでに古リパライン語によって相互理解を図っていたのである。シェルケン政権は成立してから二年にして、言語政策によって古リパライン語の話者を増やすことに成功していたのであった。

3.2.1.3. デュイン北方に逃げた原住民の言語

 Xelken.valtoalに追われた原住民は、北洋を超えてラファンカ、リスターメ、サラス、パニアル、クランタルなどの諸島に逃げた。デュイン近海の航海術を知らなかったシェルケンたちは海を渡ることができず、北方に逃げた原住民は逃げ切ることができたが島嶼部に住んでいた先住民たちと戦闘するなどして定着にさらなる困難がある場合もあった。この過程は現地においてクレオール言語を生み出すなどして、新たな言語的状況が生まれたが明確に何があったかは分かっていない。


3.2.2. サルシュナースと言語ナショナリズム

3.2.2.1 サルシュナース文化の興隆

 ピリフィアー歴801年に国家の指導者がフィアンシャに移行してから、市民はその宗教主導の政治に不満を持ち始めていた。

 ピリフィアー歴805年には、ラネーメ共和国に向かおうとした商業船アクルサー号が沈没し、そのうちの一人であるレアディオ人イェクト・ユピュイーデャが島嶼部に遭難した。当時深く理解がなされていなかったパイグ人を中心とした伝統的な言語環境を維持するラネーメ人と接触し、パイグ人には高魚(sue1 mui1)と呼ばれた。パイグ社会では四年間生活し、810年にパイグ人の助力によってレアディオに戻され、そこで経験したサームカールトの儀式や皇論信仰(タムツイ)の神秘性や美術性に目を取られ、リパラオネ社会に向けて「西方の諸島における先住民の神秘的な生活とその文化について」(西方記)をピリフィアー歴811年に発行した[8]

 西方記やパイグ人の存在は当時のリパラオネ教文化に強い激震を与えて、長年保守的な管理構造を維持していたフィアンシャに対するアンチテーゼとしての文化改革運動サルシュナースが生まれた。この運動は人間がより高い尊い存在に立つためにはどのような考え方と感性を持つべきかということを個人それぞれが実践を通じて知るということが大きな方向として認知されたが、これとは裏腹にアイル・パイグ文化とは全く異なる制御不可能な文化運動となりサームカールトの乱用や集団自殺が相次いだためにフィアンシャ権威からは秩序を破壊する異端者(レーンテーゼッシェ)として処刑を受けるようになっていく。この処刑に基づいてフィアンシャ同士の政治的な対立も明確化して、リパラオネ教社会は分裂が始まっていく。

3.2.2.2. 現地語宣教と言語記録

 リパラオネ教社会が混乱に陥っていく一方、ラネーメ圏に対しては様々なリパラオネ教組織が布教を行った。西方諸島におけるフィシャ・フォン・フィアンシャの聖ヴィレティ宣教師派遣団(聖ヴィレティ団)は、アイル人を中心にリパラオネ教の布教を行った。その際にリパラオネ教の教典が現地語に訳された。聖ヴィレティ・フィアンシャのジェパーシャーツニアーであり、聖ヴィレティ団のリーダーであったリパラオネ教フィシャ派のフィシャ・リーサはサルシュナース文化の煽りを受けて、簡単に庶民に伝わる布教活動を重要視した。現在までのリパラオネ教の知識が上流階級にのみ保持され、その知識的格差がサルシュナース文化の興隆とその騒動、そして人間が人間として生きていくうちの格差を生んでいると考えたフィシャは、現地語布教を重要視して聖ヴィレティ団はこのときにアイル語、パイグ語、バート語の記録を増やし正書法を制定した。また、後世のラネーメ諸語の標準語及び正書法の制定に大きな影響を与えることになった。

3.2.2.3. ラネーメ諸言語文字体系の成立

 アイル語には筆記体デュテュスンリパーシェが持ち込まれた。ラネーメ人の中でも多数派であり、リパラオネ人と接触する機会が多かったためにアイル語の表記には筆記体が定着することになった。

 バート語・パイグ語には書写体デュテュスンリパーシェが持ち込まれた。筆で書かれた書写体デュテュスンリパーシェ表記はパイグ語では後に筆のリパーシェとなり、一音節一字で


あった燐帝字母の利用と置き換わることによって、結合音節文字であるパイグ文字となった[9]

 音節構造に制約の強いバート語・タカン語ではアブギダが発展できる土壌があった。バート語はリパーシェの字形をベースにアブギダが成立したのに対し、タカン文字はパイグ文字を元にアブギダが成立することとなった。バート文字には当初ナウトゥホーマーエー(単語をつなげる線)は存在しなかった。続け書きしていた初期のバート文字は後世になって単語を区切るためにナウトゥホーマーエーが導入されて現在の形になっている。分かち書きをしないところから始まった結果今でも句読点の片側にスペースが入ったりしない。

 これらのリパラオネ教関係文章の現地語記録は、書記官が握っていた読み書きの能力を庶民に広めることになり、識字率を上昇させた。

3.2.2.4. 言語ナショナリズムとサルシュナース文学

 聖ヴィレティ団のフィシャ・リーサが簡単に庶民に伝わる布教活動が現地語による布教を進めたのと同様に、イェクト・ユピュイーデャは国内の民衆の教育水準の改善のために高位のリパライン語ではなく低位のリパライン語を使うべきであると主張した。この高低位の区別は口語のユナ語としての存在であり、文語となっていた古典リパライン語と区別されていたことが良くわかる。

 また、ADLPの支配から離脱し、宗教権威にそれぞれの支配が移ったわけだがリパラオネ教勢力は言語行政には対して興味を持たなかった。しかしながら、フィアンシャ権威は分離勢力と成りうる地方のナショナリズムを弾圧したためにブルジョワ革命までにナショナリズムの情熱は言語に向かっていくことになった。

 このような二つの状況は、それぞれの地域のユナ語と古典リパライン語を混ぜ合わせたような地方別の書記言語スタイル(フェガーデル)を生み出し、それを称揚するようになった。サルシュナース文化が興隆すると、このようなフェガーデル論はサルシュナース文学に明確に現れるようになった。つまり、各地域の変種を称揚し、また、リパライン語だけでなくリナエスト語やラネーメ諸語でも積極的に作品が書かれるようになったのであった。

3.2.2.5 クローメと言語ナショナリズム

 ピリフィアー歴821年、最初の詩学院クローメ・フォン・ブラーデン・アルヴェクトゥスが立てられた。この詩学院はスキュリオーティエ叙事詩を学び、また当時貴族の教養とされていた詩を学び、また発表する場所であった。貴族の間では詩学院に属することが流行したため、世界全国に詩学院が広まっていった。klormainsは現代では「人文学系の学生」を指しているが、古ユナ語の時代ではklorma(詩学院の教師)-ins(下方)、つまり「詩学院の生徒」を指していた。

 フェガーデル論は、詩学院のなかでも強力に働き、社交の場としても強い影響力があった詩学院が全国に広まるにつれてフェガーデル論も世界に広まっていった。

 この広まりが現実に明確に現れた運動にリナエスト人言語思想家ハースチウズナ・リェーツェスケウツィー・ビェールノイが先導したヤシェカ・セレニア運動がある。ハースチウズナはそれまでリパーシェでリナエスト語を表記していたものをリナエスト文字へ戻そうとし、またディアスポラからコミュニティに戻ったリナエスト人によって大量に流入した借用語や複雑で複数の言語の体系が混ざった数詞体系を純化しようとした。ハースチウズナの改革が全て達成されたわけではないが、このような動きはリパライン語を用いる言語思想家たちへも言語ナショナリズムの現実化を強く意識させるものとなった。


3.3. 活版印刷と言語ナショナリズムの現実化 ~9世紀以降~

3.3.1. 活版印刷と言語の標準化の始まり

 ピリフィアー歴801年にパイグ人のニー・レイによって木版印刷が一般化され、ピリフィアー歴1010年、リパラオネ人であるコンダーファフィス・クレーティヤが活版印刷術を発明することになった。

 この印刷術によって出版や新聞が発達し始めることによって、リパライン語による出版も増えることになった。出版によって様々な思想や文学が広く伝えられるようになると、リパライン語は誰にでも理解できるような標準化の道を歩み始める。印刷術やそれに頼る文筆家にもサルシュナース文学の影響が及んで、書記言語としてのユナ語の導入が始まる。

 ただし、これに反する動きもあり、活版印刷士と文筆家によって構成される同業者組合であるエフドレスケスは二つの派閥(保守派・革新派)に分かれ、文語としてのリパライン語の正統性を取るのか、簡易性を取るのかという議論は再燃することになる。

 活版印刷術を発明したコンダーファフィス・クレーティヤの来孫であるコンダーファフィス・アルタフはサルシュナース文学の影響でユナ語の要素を文語に入れることによってより広く民衆に伝わるようにするという目的を持って新しい文語を同じ革新派エフドレスケスのメンバーと考えアルタフ協会を設立し、この方針を出版した。

 フィシャ・カルティヤを中心とした派閥はリパライン語の正統性を重要視して印刷に入ってゆくユナ語の要素を批判した。フィシャは保守派エフドレスケスの人間を集めて「現実における国際リパラインの豊かな利用者による改善連合」通称サラリス協会を設立し、革新派と対立した。サラリスには一部の旧ADLPのxelkenや中理派の多くが参加することとなった。

3.3.2. ヴェフィス・ナショナリズムと『リパライン語』

 エスタール時代の最後にヴェフィス人たちはブルジョワ革命を起こし、ヴェフィス・ナショナリズムに基づきリパラオネ共和国を建国した。ヴェフィス・ナショナリズムはヴェフィス人が王朝に残った最後のリパラオネ人であったことを中心にリパラオネ人の優勢を称揚した。これに基づき、『リパライン語』という概念も更に注目され、明確化されるようになった。

 ヴェフィス・ナショナリズムの影響により、ADLPが先導したリパライン語政策を否定し、現代のリパラオネ共和国としてのリパライン語標準語を成立させるためにリパラオネ共和国の言語政策ではユナ語を文語に導入していくコンダーファフィス・クレーティヤを中心とする革新派グループを支持したが、同時に政権を支持する保守派の言語意識も支持しなければならなかったために言語政策には慎重な立場を取った。基本的にリパライン語に対する言語計画として本体計画を強く介入しなかったために政府によるリパライン語への影響は少なかった。

 リパラオネ国家の民間の中ではサラリス協会とアルタフ協会を中心にxelken、xelken.valtoal、聖学会派、中理派、フィアンシャ言語思想家など完全に思想が分裂していた。だが、いずれにしても明確にリパラオネ人のリパライン語という意識が民衆の中では高まっていった。

 サラリス協会は純粋なリパライン文語を目指して、文語に混ざるユナ語を排除し古典表現に立たない新たな表現を批判した。アルタフ協会はサラリス協会のそのような行き過ぎた純粋化をリパライン語の表現力不足を招くことになると批判した。


第四章:イフトーン時代の言語と文化

4.1. 詩韻文復興運動、フィメノーウル的教法文学

4.1.1. エスポーノ・ドーハ

 16世紀からリパラオネ文学に最も強い影響を与えたのはエスポーノ・ドーハである。独立国家連合成立の時代にラネーメ国ビジアン地方で生まれ、古典的なヌクソラスタ詩の変形形式であるドーハ詩を作り出し、原本スキュリオーティエ詩の発掘及び翻訳に携わった。反戦運動家でもあり、民族主義の傾向が高まっていたラネーメにおいて国家からは迫害を受け、29歳でリパラオネに国外追放されたが国民の声によって32歳で国に戻る事ができた。1552年に45歳でデーノラネーメデイオ戦争の最中国境付近で遺跡の調査中に攻め込んできたデーノ国兵士の銃撃により死亡した。

 この時代、スキュリオーティエ叙事詩は顧みられず前時代のサルシュナース文化の影響を受けてパイグ語などのラネーメ詩に基づく音節数定形詩や文学にラネーメ文学の伝統が強く映し出されたものが主なものとなっていた。ナショナリズムの時代となって文学への言語ナショナリズムの影響も強くなっていくなかで伝統文学を導入したエスポーノ・ドーハの著作を中心にリパライン語の古くからの韻文を取り戻す詩韻文復興運動が活発化した。

4.1.2. フィメノーウル的教法文学と詩韻文復興運動

 詩韻文復興運動が活発化した一方で、サルシュナース文学の後継としてフィメノーウル的教法文学が発達した。フィメーウル教法文学ではリパラオネ教を中心とした教法学を中心としたリパラオネ教の神話とヴェフィス人の信仰であるフィメノーウルの世界観を応用したものであった。この時代のヴェフィス・ナショナリズムを中心とした復興運動的言語ナショナリズムはフィメノーウル的教法文学と詩韻文復興運動の間に大きな亀裂を生じさせた。

 エスポーノ・ドーハが復活させた古典に通じる詩韻文復興運動に乗ったスカースナ・トゥリオイユなどの文筆家は、フィメノーウル的教法文学が革命以前の古い価値観のままの遅れた文学であると捉えていた。逆にフィメノーウル教法文学の潮流に居たフィシャ・トゥスティナフィス・フェレサファなどの文筆家は詩韻文復興運動がこれまで築き上げてきたリパライン語の文学伝統を破壊し、考えもなしに古い詩体型を持ち込んで粗野で崩れたリパライン語文芸作品を広めていると非難した。

 リパラオネ共和国の国民たちは高まりゆく国家のナショナリズムの潮流に流されるようにして多くは詩韻文復興運動を支持した。それまで、リパライン語はADLPが全国を統治するための道具に過ぎなかったがそれがこのイフトーン時代から国民の固有性と独自性を顕示するために明確化されていった。二世紀前から保守的な言語思想を持ち合わせていたサラリス協会の過激な言語施策にも目が向けられ、支配の拡大による国家の版図の拡大の二次的な活動として支配地域に対してリパライン語を利用させ、遅れているとされた支配地域の地域言語を放置し、消し去ろうとする言語帝国主義的思想が一般的な考えとなっていった。

 このような考えは文学にも強く影響し、詩韻文復興運動の一員であるスカースナ・トゥリオイユが発表した「高貴な詩を伝える者」は、主人公が植民地支配した先住民に対して「高貴で有用な言語であり、先進的で伝統を持ち合わせたリパライン語の最高文学であるスキュリオーティエ叙事詩を教育する」という始まり方をしている。これらの思想は以降のファイクレオネにおける言語差別的思想や言語権の侵害を促進することになった。


4.2. 植民地支配と言語政策

4.2.1. 言語純化運動

 前世代のフィシャ・カルティヤを中心としたサラリス協会における言語純化運動は、イフトーン時代に入ると、ある点非難されながらも、ナショナリズムの中で称揚された。ピリフィアー歴1618年にリパラオネ人言語学者ヒンゲンファール・ヴァラー・イルテアフが発表した論文「ユナ語の純粋性」においては古典ヴェフィス語とユナ語の近似性から、ユナ語がリパラオネ人言語の中でも純粋なものであるとした。これは、ヴェフィス・ナショナリズムの中でヴェフィス人が長らくラネーメ地域で残り続け、その言語を残していたというところからリパラオネ人の言語として純粋性があるとされていたことに繋がっており、サラリス協会が考えていた文語リパライン語からの口語であるユナ語の排除という純化の方法は誤った方法であったと当時の知識層には受け取られることになった。

 言語純化運動は学術世界からではなく、マスコミ・メディアや知識層の民衆のうちから国家の政策へと昇華されて大きな運動となっていった。ピリフィアー歴1619年にヒンゲンファールの論文に基づいてリパラオネ共和国の新聞社「ラ・ヌクソル新聞社」が言語純化を推進することを宣言したことを始めとして、ピリフィアー歴1621年には新聞28社が合同で「夜明けのサラリス協会」を設立した。

 名前から明確に分かる通り、この団体は古くにあったサラリス協会をこの時代に復活させ、リパライン語を外来の影響から守り、更に純化させるという強い目的があった。また、この協会には政府関係者からも参加者が現れ、各社の新聞を通じて民衆も協会へと参加して文語リパライン語の「純化」を目指した。

 純化は明確なラネーメ語の排除とそれを口語であったユナ語や古典ヴェフィス語、口語ヴェフィス語に置き換える作業から始まった。協会は単語を置き換えるだけではなく、ラネーメ的語法を排除してそのかわりにスキュリオーティエ叙事詩の表現やADLPの古典リパライン語の表現を推奨した。ただし、古典リパライン語自体を文語へと持ち込むことは協会は行わなかった。これは古典リパライン語が既に民衆にも知識階級にとっても特殊な訓練がなければ読めなくなっており、文語の変遷自体が不可避的であったことの現れでもあった。ブルジョワ民主主義の時代へと突入していくにつれて、文語リパライン語への借用語の固有語への置き換えや翻訳借用、語法純化と伝統文学の称揚を中心とした言語ナショナリズムの展開は結果的に言語の民主主義化を推し進め、就学率や識字率を押し上げ、文語は口語にも影響を与えて、最終的に現代標準リパライン語の祖語とも言える古ユナ語がこの時代から形成されていくことになった。行き過ぎた純化が抑制されたのは、夜明けのサラリス協会が前世代に存在したアルタフ協会の思想も参考にしたからであり、無理な純化による国家の弱体化を防ごうとも考えていたからであった。知識層が言語ナショナリズムの称揚を掲げたのは資本主義体制からの庶民の成り上がりの圧力を受けていた彼らが、言語ナショナリズムを指導することによって民衆の指導者として身を立てるという意味もあった。そのために、大量の知識階級が活発に言語ナショナリズム運動を書き立てることによって中層から民衆から国家へと言語ナショナリズムの意識は昇華されていった。

 しかし、先述の通り学術世界がそれに賛同したかというと必ずしもそうではなかった。燐字学者として有名なキャスカ・ファルザー・ユミリアは、この時代に燐帝字母研究を推し進め燐字理語辞書を出版しており、リパライン語の言語ナショナリズムとは一切関係しなかった。逆にターフ・ナモヴァフなどのリパラオネ民族ロマン主義言語学者はリパライン語の原祖的姿を求めてリパラオネ祖語研究を推し進めており、学者によって方向性はバラバラであった。


4.2.2. 植民地言語教育

 先進的な言語という意識を持ったリパライン語はリパラオネ共和国の植民地支配の拡大と共に広がっていった。リパラオネ共和国、ラネーメ国、クレオス国が共にリパラオネ連邦を成立させると、強大な力を持つリパラオネ共和国は言語の先進化の名目で地方のラネーメ諸語の利用に圧力を掛けた。当時のナショナリズムの流れの中ではリパラオネ民族という概念が明確化されていったが、その内実は近代合理化されたとされるリパライン語を話し、その伝統を継承するリパラオネ国家に住む国民であった。これはユエスレオネの時代まで継承されており、「ラネーメ系リパラオネ人」という言葉にも含まれている。このために、大量のラネーメ人に対して言語差別が行われ、行政言語もリパライン語のみになった。しかしながら、当初、ラネーメ人側から何ら大きな反対活動はこの時期にはなかった。というのも、そもそも拡大するリパラオネ共和国の傘下へとラネーメ国が属する事自体がラネーメ国を永らえさせる国際的な政治策であり、そのような国家体制の動きの下ではリパライン語が知識層や上流の言語として定着したためにリパライン語自体が成り上がりの象徴となったからであった。1992年には、リパラオネ人の介入によってラネーメ国では共和国革命が発生、政府上層の反リパラオネ的政治家が排除されてリパラオネ連邦への加入が完了する。

4.2.3. 東島通商語の成立

 現在ではPMCFの議会共通語として用いられる東島通商語は、独立国家戦争時代に始まるラネーメ諸語を利用する少数派ラネーメ人やリナエスト人、ヴェフィス人などの旧ラネーメ国への疎開により始まった混沌とした言語環境で発達した。独立国家戦争においては、旧ラネーメ国の属するリパラオネ連邦では言語政策としてリパライン語の標準化を推し進めた。これに従い連邦諸国ではリパライン語教育が徹底された。多民族多言語状況であった旧ラネーメ国の内情からリパライン語がお互いのリングア・フランカとして発達した。各人の公式な言語としてのリパライン語と家庭や民族、地域のそれぞれの言語のダイグロシア状況から出来たピジン・リパライン語が東島通商語の起源となっている[10]。Falira(2018)によると、東島通商語はリパライン語話者がほとんど関与せず成立したとしている[11]

 PMCFの成立以後も続く、東島通商語への偏見はこの時期から醸成されてきたものであると考えられている。エリートたちは自分たちから見て下流に属する民衆が崩れたリパライン語にも見える東島通商語を話しているのに対して非常に不快感を覚えた。これは東島通商語成立当時のラネーメ国に政治の中枢に居た上流階級はリパライン語を話すエリートであり、その地位とリパライン語の繋がりをリパラオネ連邦への傘下という上層からの圧力と民衆による東島通商語の成立を連邦化による利益をできるだけ得ようとする下層からの崩れた文化的圧力を捉えたからであった。こういった経緯によって、上層は熾烈な東島通商語排除政策を始めることになった。政府はまず、言語啓蒙を掲げて新聞や放送、そして教育からの東島通商語の排除を進めた。リナエスト人やヴェフィス人の話す言語はリパライン語に近く、すぐにそれを習得することが出来たために彼らの間で話されていた東島通商語は簡単に駆逐されていった。しかし、彼らのうちの多くを占める下層市民やラネーメ諸語を話すラネーメ人はリパライン語をすぐには習得できなかったために不満が溜まっていった。これは最終的にラネーメ・言語ナショナリズムへと繋がることになった。


4.3. ラネーメ・言語ナショナリズム

4.3.1. ファスマレー国語化運動

 ラネーメ・言語ナショナリズムの動きとしてピリフィアー歴1998年からラネーメ国で起こった運動がファスマレー国語化運動である。

 ラネーメ国の東島通商語の排除と共に中期リパライン語ラネーメ方言による国語教育の徹底のための「国語新生運動」が推進された。国家の画一的言語政策のために行われたこの運動は地方での反発を強く受け、これまでの古典語教育がなさされずに伝統が途切れてしまうことなどに対して皇論知識人やラネーメ・ナショナリストが強烈に反発した。ここから活動は民衆へと燃え広がり、国家はファスマレー語の国語化と燐帝字母教育を行うべきであるとするファスマレー国語化運動が全土へと広がっていくことになった。こういった言語主張が行われる背景には、知識人の思想基盤にリパラオネ・言語ナショナリズムの影響と共にシェルケン・ヴァルトルなどの過激な言語保守思想の影響があり、また民衆の支持を得た過程には苛烈な東島通商語排除への反発、リパライン語を国語として教育することへの反感があったためであった。同年、熾烈な国語化運動は最終的に国語としての認定を受け、ラネーメ国は十年後の2008年を目標に国語化と教育体制を整えていくことを宣言することになった。この運動には後の連邦共産党党首となるターフ・ヴィール・イェスカなどが関わっていた。

4.3.2. ラネーメ族間言語対立と言語保護論・保護言語不在論の対立

 一方、この時期にはラネーメ民族主義を主張するラディールゲーと土着的ラネーメ人であるパイルターファが対立関係が深まっていった。ラディールゲーが上流階級であり、リパライン語とリパラオネ主導の国家権力を支持し、強力な国家の維持を支持したのに対し、パイルターファは民衆であり、それまでの皇論権威や自らの民族語とその文字、燐帝字母を支持し、ファスマレー国語化運動などのラネーメ・言語ナショナリズムを支持した。

 パイルターファ知識人であるリーサ・カクザは、1999年に著書「ラネーメ国における言語権」を発表する。そこではパイグ語、タカン語、アイル語、バート語の権利が主張された。民族語の支持は、ラディールゲーが考えるような国家の分離主義を推進するものではなく、逆に民衆が国家を信用し、支持を進めるものであるとした。また、「現在のような民族語の排斥状況は使用したいと望む言語を使用して、社会生活を営めない状況である。母語や第一言語でない言語を用いて行政や教育を受けなければならない状況はその本人が自由意志をはっきりと示せない可能性が高い状況である。このために自由な国民国家であるラネーメ国であるためには国民に多言語で行政と教育を受ける権利が保証される必要がある」とした。ファイクレオネで始めて言語権が提唱されたのは本書であった。これに従い、パイルターファ知識人たちは主に民衆の言語保護論を支持した。

 対して、ラディールゲー知識人はパイグ語、タカン語、アイル語、バート語はファスマレー語の方言であり、それぞれファスマレー語を用いれば相互意思疎通が簡単であるということからファスマレー語の国語化宣言を盾にパイルターファ側の主張を受け入れようとしなかった。

 ピリフィアー歴1999年に発表されたリナエスト人社会言語学者であるジュヘーシェ・ユーヅニー・ラインの論文「政治的言語と比較言語学的言語」の中では「ラディールゲー知識人の主張は政治的言語と比較言語学的言語を混同した無意味な議論であり、現実に沿って民族語の利用を進めることは現在のような言語的混乱を終わらせる」と主張して、パイルターファ知識人側を支持した。


4.4. Xelkenによるハタ王国人の拉致と言語浄化

4.4.1. ピリフィアー歴1620年以降の拉致

 話はピリフィアー歴1620年に遡る。デーノ国近辺に住んでいたデーノ人はウェールフープによってファイクレオネとは別のウェルフィセルに存在するカラムディアのユーゲ平野のハタ王国ハフル北部及びスケトイランテイン島へ集団移住した[12]。これらの原因として、当時十六世紀のレシュトなどによる国際的な政治と暴力の動向が市民に向かうことになったからであり、際限なき紛争が起こったことやそれに従って増税により生活が困窮したことなどがあるからであった。ハタ王国は当時、スカルムレイ体制が強化されており、結果的にトイター教やスカルムレイ体制を容認しない移住デーノ人たちはこれに反発し、武力対立を繰り返した。イザルタではこれら移住デーノ人が大虐殺を行うなどした。ララータ=ハフリスンターリブはリパラオネ教などの権利獲得を目指す「ハフリスンターリブ」を設立し、トイター教のみを認めるハタ王国との対立関係を組織化した。

 Xelken.valtoalはその前からウェールフープによってカラムディアに出現しており、幾らかの調査を行うなどしてハタ王国人にも少ないが認知はされていた。Xelken.valtoalとハフリスンターリブは調査の過程で接触し、相互利益を確認した。つまり、Xelken.valtoalがウェールフープによる武器などを提供する代わりに、ハフリスンターリブはスカルムレイ体制を容認するハタ王国人をXelkenに引き渡すというものであった。これが後に知られるALHX、Xelken.valtoalによるハタ王国民拉致問題に繋がることになる。

4.4.2. シェルケン・デュイン政権とユーゲ人

 Xelken.valtoalが拉致したユーゲ人はシェルケン・デュイン政権の仕組みに従って、フィオンの中にバラバラに流入した。しかしながら、ユーゲ人の人数はあまりにも多かったためにフィオンにはユーゲ人コミュニティが発生した。このコミュニティの発生に施政者たちは強い危機感を持ち、ユーゲ人に対する苛烈な同化政策を進めることになる。少しでも反対するようなものはウェールフープを用いた再教育や拷問、洗脳などの非人道的な手段をなりふり構わず用いた。ユーゲ人の名前は利用が許されず、リパライン語の名前を本来ADLPが下賜されるものであるはずのアロアイェーレームとして(つまり絶対的名前として)与えた。ユーゴック語はもちろんどこにおいても使うことが出来ず、トイター教の礼拝集会は禁止及び解散され、拉致被害者の間に生まれた子供は古リパライン語で教育された。以下は、小説に描かれたユーゲ人拉致被害者の洗脳時の描写である。

 テロ組織xelken.valtoalの朝は早い。6時には全員が起きて、朝礼をする。そして全員が集まって古リパラインを神の言語とする祈りをささげる。あとは各自で朝食を済ませて、各々が作戦に入る。なかでも古リパライン語の相続者の教育には力が入っている。子子孫孫、孫の代、その孫の代まで古リパライン語を残す。一方で新理派や反理派の駆逐を行う。今は新大陸デュインの植民地化を進めている。私は今xelken.valtoalの古リパライン語の教育を王国より拉致られたものと共に受けていた。今周りにいる反理派も早く古リパラインについていけばいいというのに。

「Kranteerl y io hahuli」, #9)


4.4.3. 言語消滅とサニス語の発生

 前述の通り、デュイン・シェルケン政権においてはユーゲ系拉致被害者は苛烈な言語浄化の状況に置かれた。ユーゲ人同士であっても拉致被害者の間に生まれた子供はXelken.valtoalの元で古リパライン語で教育された。ユーゲ人の主要宗教であるトイター教の礼拝集会は禁止及び解散され、宗教的組織に基づく教育も発覚次第、構成員の殺害や拷問で対処され次第に力を失っていった。このように生まれたユーゲ系デュイン人は多くではユーゴック語を言語継承せず古リパライン語を第一言語として習得した。また、トイター教ではなくリパラオネ教やXelken.valtoalの価値観によって教育を受けたためにその親との人間関係も言語的・文化的隔絶によって断絶した。このような状況のもとで、ユーゲ人が多かったサニス地域ではユーゲ系デュイン人とユーゲ人拉致被害者の間での言語的断絶にユーゲ人拉致被害者が適応する過程で中期リパライン語とユーゴック語の間でのサニス・クレオール語が発達した。ここでXelken.valtoalが教育した古リパライン語ではなく、中期リパライン語がクレオール言語となったのには、Xelken.valtoalの構成員が話すリパライン語が中期リパライン語であり、ユーゲ系デュイン人が話すリパライン語にも影響したためであると考えられている。サニス・クレオール語はデュイン総合府の成立までに100万人の第一言語話者を獲得している。人称代名詞の名詞修飾が後置になったり、動詞否定のnivにあたるnibwが前置されるなど多くの点で中期リパライン語とは異なる言語になっている。

4.4.4. スカメイ伝説

 十六世紀からXelken.valtoalが他ヴェルフィセルとしてのカラムディアとハタ王国の存在をファイクレオネに伝えていたが、リパラオネ教社会はそれを伝説や創作として捉えていた。最も広まったのが伝説の専制国家「スカメイ」の伝説であり、異世界に存在し、フェクネンシュティ・テイター(Feknenxti.tejtar)と呼ばれる不死の王女が君臨しており、国民はウェールフープによらない不思議な力を利用して侵入するxelkenやケートニアーを抹殺するとされる。国民はテイターを崇めており、信仰の一つになっていると考えられ独裁国家、専制国家としてファイクレオネ人に恐れられていた。

 以下は小説においてデュイン戦争後の報道の様子が描かれたものである。

“ニュースをお伝えします。先日、xelkenがここ数年急激に兵力を増やしていた理由がわかりました。また、数十年前に現れた伝説の専制国家「ハタ王国」も存在が確認され、xelkenがその土地へ拉致を行っていたことが分かりました。”

 どうやらこの前の戦争の件についての報道だったようだ。

“このことを危惧して王国に被害がこれ以上及ばないように連邦はハタ王国の首脳である「スカルムレイ一族」と話をしてサニス条約を締結し、王国の護衛に努めました。戦場となったところはxelken.valtoalがここ数十年で見つけた新大陸で彼らは「デュイン」と呼称しております。xelken.valtoalと共に同盟を結んでいた王国の過激派「ハフリスンターリブ」は連邦軍と王国軍によって全員逮捕に至りました。”

すると、スカルムレイ陛下が映し出された。

「あ、陛下!」

“今回の事件に関して、大きく貢献されたケンソディスナル氏は来月にはハタ王国のネステル市、およびフェーユにて表彰がされる予定です。新大陸デュインに関して連邦の措置は未だ定まっておりません。”

Kranteerl y io hahuli, #62 一部編集)


4.4.5. リパライン語への早期借用語の流入

 Xelkenがハタ王国の存在を伝えた結果に生まれた伝説の専制国家としてのスカメイ伝説は基本的に民衆には創作として受けいられた。Xelken自体は、古理語を称揚する主義主張と共にウェールフープ研究(有名なウェールフープ研究者であるシェルケン・スカーナもXelken.valtoalの出身である)や文学・芸術運動をそのコミュニティで推進していたために、そういった延長上にあるものであると誤解された。しかし、伝説は流行し、これをモチーフにした冒険文学が流行することになる。このような状況下で、Xelken.valtoalが伝えたユーゴック語はスカメイをモチーフにした文学を通して幾つかがリパライン語に借入されている。

 Jekto(2018)によると、ユーゴック語との接触のためにvhの文字が生み出されたとされている[13]。以下の表はユーゴック語の早期借用語の一部だが、これだけでも大量に流入していることが分かる。

Fargexti(蚊に刺される) : phaa gesyti

Aders(偽物) : adeez

Murtmir(多さ) : muri tomi

Amcol(与える、渡す) : amso

Xenon(淀み) : syengon

Naste(完璧な、全くの) : naste

Armath(主観、主観的な) : aamz

Naxen(金持ち、貴族) : nachen

Xelun(平民、貧乏人) : acherun

Ars(無理やりな) : ttaas

Xelir(敬愛する) : syerii

Wers(突き刺す) : u eres

Xast(酒を飲む) : syast

Voklis(目的、目標) : wokris

Vhihhicem(競売で買う) : bwi fi sem

Vhens(油) : bwensi

urn(雲) : uun

Xarlfa(吹雪) : choorhuu

Tvak(颪) : tuak

Wikarxa(巣を作らない蜘蛛) : ikaasya

Ulo(巣を作る蜘蛛) : uro

tvin(苔) : tuin

tulertte(いんげん豆) : tureettem

Attaferle(息苦しい) : addo huure

Axlarta(子弟、生徒) : asrartrom

Xfarnir(かぼちゃ) : sukanai

Axxervo(ちょうどの) : asseero

Xarzni’ar(シャーツニアー) : charz+-ni’ar

Ladirris(元に戻す、返却する) : la di -r- is

(理日辞書より。太字はユーゴック語。)


第五章:エフトーン時代の言語と文化

5.1. 共和制時代の社会と言語

5.1.1. 共和制時代の成立

 ピリフィアー歴2000年、出血熱ワクチンのテストによって発生した変異体生物は急速にファイクレオネ全土に満ちて、地上を覆った。また、出血熱の蔓延によって各地で政府が荒廃した結果、リパラオネ連邦政府を中心にユエスレオネを空中に浮かせることによって変異体と感染症から身を避けることになった。ユエスレオネでは既存政府は崩壊し、ラネーメ勢力を中心としたアル・シェユ、リパラオネ勢力を中心としたフェーユ・シェユ、デーノ人や少数者を中心としたクァク・シェユの三つのシェユという政治的単位に集合して、それぞれのシェユが協力してそれぞれの利害を調整する体制が成立した。超国家主義と呼ばれるこの体制は、全ての市民にとって倫理的国家の成立として称揚された。

 これがいわゆる共和制ユエスレオネ時代であり、第二次社会主義ユエスレオネの人間がいう「旧政府体制」である。以下では、旧政府体制下における各シェユにおける言語行政を記述する。

5.1.2. 共和制時代のアル・シェユにおける言語社会

5.1.2.1. ラネーメ民族党の成立

 旧政府体制下におけるアル・シェユの言語社会を議論するにあたっては、ラネーメ民族党の影響が強いためこれの成立について知っておく必要がある。

 ピリフィアー歴790年に南北分離戦争の全てが終了し、ディヴィージ国が崩壊した際に作られたラネーメ王家派政治組織ラネーメ民族党が拡大、支持を得ながらラネーメ国を建国しデーノを除く南方地域を統治した。しかし、901年の独立国家連合の成立、1655年のリパラオネ連邦の成立によってラネーメの覇権は小さくなりラネーメ民族党も野党と成り下がった。こうして、ラネーメ国の王家派であるラネーメ民族党は縮小の道を進むこととなる。

 1992年、第二次ホメーンアッシオ戦争が終結。戦争で敗退したラネーメ国内の民主派などの信頼はほとんどなくなっており民主派解党デモが起こされ死者が出るほどであった。ここでラネーメ民族党の幹部が交代し新しく就任したアレス・ラネーメ・リハンカ(アレス・ラネーメ・リパコールの曾祖父)は異例の若さでラネーメ民族党を改革し始めた。まず、汎ラネーメ主義とともにラネーメ民族主義味を濃くしていった。しかし、ここで民主派陣営による共和国革命が発生し党自体が解党させられ政治に参加できなくなったが政治クラブ「ラネーメ民族と人類の平和を考える会」としてある程度存続した。しかし、リパラオネ連邦の介入によってこれらも解散とさせられた。ユエスレオネに移動した入会者は介入の無くなったアル・シェユにてラネーメ民族党を再結成した[14]。こうして、ラメスト・テロなどにおいて標的になったアレス・ラネーメ・リハンカは、新生ラネーメ民族党の党首に再び戻ることになる。ラネーメ民族主義を支持したのは4.3.2.で示した通りラディールゲーであったが、リハンカはラメストにおける経験から古典リパライン語に対して強い反感を抱いており、その継承者と考えられるユナ・リパライン語をシェユ公用語とすることには反対していた。


5.1.2.2 ラネーメ民族党と言語

 ユエスレオネに避難することが出来たのは大半がラネーメ民族主義を支持していたラディールゲーであった。前述した通り、リパライン語を支持し、強力な国家の維持を支持していたために教養言語としてのリパライン語をアル・シェユの公用語として採用することを支持していた。しかしながら、ラネーメ民族主義を統括するラネーメ民族党の党首となったアレス・ラネーメ・リハンカはラメスト・テロ以降Xelkenやリパラオネ民族主義の過激派に幾度となく命を狙われて来たことから、Xelkenの支持する古典リパライン語の継承者と考えられていたリパライン語に対して対抗意識を持つようになっていた。また、リハンカはXelken過激派の異常なまでの古理語への崇拝への反感から、民族主義言語政策として個別のラネーメ諸語を採用し、称揚することもそれ程支持していなかった。この板挟みの関係の中でリハンカは共和制時代には明確に言語政策を打ち出すことが出来なかったとされている。

 ユエスレオネ成立からユエスレオネ革命内戦による連邦化までの間にリハンカ含むラネーメ民族党は別のシェユから流入する外国人労働者に対しても、アル・シェユ内の複数の言語話者に対しても特定の社会統合政策を取らなかった。社会統合政策が行われなかった状況下のアル・シェユでは少数のパイグ語、バート語、タカン語、アイル語の話者が多数であるアル語、ラディーニャ語、ユナ・リパライン語の話者に自然に同化していった。また、その子供も自身の親の第一言語に社会的価値を感じず、むしろ嫌がるようになり言語継承が危うくなっていった。

5.1.3. 共和制時代のフェーユ・シェユにおける言語社会

5.1.3.1. LILCの提唱

 フェーユ・シェユにおいても民族保守運動(CUFL)などの排外主義的民族主義があったが、これは少数であった。大多数としては、リパラオネ連邦を主導していた社会主義的な考え方が浸透しており、リーサ・カクザの「言語権」を基軸にした「言語保護論」、ジュヘーシェ・ユーヅニー・ラインの「政治的言語と比較言語学的言語」のような考え方を受け継ぎながら、ピリフィアー歴2001年にリパラオネ人社会言語学者であるヴィヨック・イヴァネは「多言語社会統合発展言語行政枠組み」、通称LILCを提唱している。

 LILCでは、リーサ・カクザの行政や教育を保障するための多言語言語行政とその社会一般で使われる多数派言語による言語機会の保障を同時に行うことで双方で一個人の社会統合を目指すことが出来ると考えている。また、言語教育学の発展によって多言語学習が言語学習自体に対して良い影響を与えることが分かってきたことから、このような言語能力の発展によって社会自体が多言語環境に一般化し、相互扶助が可能になっていくという社会的展望も持った革新的な言語行政に対する提案であった。

  1. 母語教育
  1. 母語への自信を育み、個人が社会で活動する上での信頼も生まれる。
  1. 多数派社会・言語教育
  1. 社会統合を促進し、国家への信頼も生まれる。結果的に国内の安全保障に繋がる根本的な解決案と成りうる。
  1. 母語行政
  1. 行政と教育を万全に受ける権利を保障する

5.1.3.2. 民族保守運動(CUFL)の主張

 リパラオネ人民族主義(リパナス)勢力である民族保守運動(CUFL)は、フェーユの幾つかのリパナス勢力の中でも最も規模があった。CUFLは基本的にラディールゲーの推進するリパライン語主導の言語政策を支持していた。民族語の教科書が存在しないものであり、無理やりな民族語推進が学力低下を起こすとした。一般的にCUFLはサラリス協会や夜明けのサラリス協会の方向性を支持する方針を持ったが、それらの言語純化などの言語自体に対する明確な方向性は持たずに単なる政治的な道具として社会言語的な状況を保守的なものに転換しようと試みた。

 CUFLはまずフェーユ・シェユ内に存在する多言語表記の撤廃を主張した。フェーユ・シェユ内の商店などでは多言語状況によってリパライン語のみならずラネーメ諸言語やリパラオネ語族の幾らかの言語を併記していた。このような多言語表記に対してCUFLは景観を害するとして表記をリパライン語とラネーメ国において公認された「ラネーメ共通語」であるところのファスマレー語のみを表記することを主張した。ピリフィアー歴2001年にはリパナス勢力によって多言語表記に反対する大規模な暴動が発生し、リーネ・ヴェ・キーネでは多くの商店に対する焼き討ちや略奪が行われた。リパナス勢力はフェーユ政府によって大量に検挙され、その後これが主流の意見となることはなかった。

 また、多言語教育に対してはリパラオネ語族以外の教育を外国語教育に入り込む反リパラオネ族教育や価値観の汚染によって「民族の血を汚す行為」であるとして反対していた。かといって、リパナスの言語ナショナリズムがXelken.valtoalのような伝統的な保守派と同一化したかというとそれは違った。これはリパナスの潮流がヴェフィス・ナショナリズムを基とする市民革命であったためにアロアイェーレーム支配やリパラオネ教政治を支持するXelkenらとの合一を否定したからであった。また、ユエスレオネに来た人々には旧世界の上層階級が多く、そのうちから更に指導的立場から凋落した貴族などは不満を抱えて排外主義的民族主義であるリパナスの支持層に加わったことやXelken.valtoalなどの過激派を社会を破壊するものと捉えていたことも関係していると言えよう。

5.1.3.3. 穏健派Xelkenコミュニティの成立

 この時期、ユエスレオネにはフェーユを中心として穏健派としてのXelkenコミュニティが成立していた。このXelkenコミュニティは従来の政治的勢力としてのXelkenのような外部に向けての古リパライン語同化圧力を掛けることもなく、少なくとも自分たちのコミュニティの中で古リパライン語と慣習を維持しようとする閉鎖的なものになった。独自のコミュニティは自らをイナー(古理語で「中にいる者」の意)、コミュニティの外にいる人々をトレンター(古理語で「外れた者」の意)と呼び分けた。内部では口承で古リパライン語を伝えるようになり、宗教に関してもトレンターが入る公的なフィアンシャに入ることはなく自らのうちに宗教家を立てて、リパラオネ教生活の代表者とした。このようなコミュニティは代表宗教家をその単位として幾つかのXelkenコミュニティと組むことによってイントリカ(古理語で「中に集まる上」の意)と呼ばれる集合体に集まった。イントリカ同士はお互いの風習や慣習、系統や言語に対する意識によって対立することもあった。そして、イントリカごとにそれまで伝統的に継承されてきた古理語も系統が分裂するようになった。こうして成立したのが、現代シェルケン・リパライン諸語である。これは5つの系統と43の方言に分けられ、現代標準リパライン語に対してユナ語要素がほどんど存在しない。また、長年のXelkenコミュニティにおける閉鎖的な生活からラネーメ諸語やユーゴック語に由来する外来語も高級語彙や早期借用語を除いて少ないものになっている。ユエスレオネにおいてもこのようなXelkenコミュニティがもつ言語に対する規範性が強いことを表している。


5.1.4. 共和制時代のクワク・シェユにおける言語社会

5.1.4.1. クワク共産主義の言語政策方針

 ユエスレオネの三つのシェユのうち、クワク・シェユはデーノ人が多くその民族的結束がシェユ政府として困難な状況にあった。クワク共産主義を主張するクワク共産党はそんな状況の中で強く支持を集めた。アフリサザン・リーツの設立した左派レシュトから派生したチャショーテ保守派は組合主義を主張する革新派と対立していたが、クワク共産党はその保守派の方向性を支持し、またシェユ内のXelkenと癒着してクワク・シェユの与党となって民主主義的体制をプロレタリア独裁の名のもとに一党独裁体制を敷いた。

 ピリフィアー歴2000年にクワク共産党員であり、思想家であるターフ・テニェーキヤが発表した「多言語状況非難」では「これまでの多言語状況は階級的なものであり、ブルジョア的帝国主義的対立は多言語に依った人民の分割によるものである」とした。これを主要な支持方針としてクワク共産党はシェユにおける多言語状況を無視し、教育や行政における言語を統一しようとした。この際に統合しようとした言語はXelkenの介入によって古典リパライン語になっていった。クワク共産党による強烈な言語政策により、シェユ内で多言語教育を推進しようとした行政官や教育者は更迭され、それらはXelken関係者と入れ替えられた。Xelkenとの癒着の関係の中でクワク共産党はその思想と行動の間に矛盾をはらみながら単一言語主義を推進した。

5.1.4.2. クワク主義的単一言語政策への批判と支持

 このような政策は16世紀の言語ナショナリズムにおける政策と本質的に同じであり、階級主義に逆行する帝国主義的押し付けであるとターフ・イェラファなどに批判された。しかし、政府は同年このターフ・イェラファを含む21名を反革命煽動の罪で逮捕し、殺害した。これら21名は皆、クワク政府の言語政策を批判しており、イェラファらの検挙はこういった批判を受け流す目的の粛清であったと見られている。このような状況の中、クワク・シェユにおける言語政策研究は更に公的政策の擁護論的色彩を帯びてゆくことになった。レシェール・エガーディヤはターフ・イェラファの殺害二週間後に論文「古リパライン語教育の支持」を発表した。この論文の中では、クワク・シェユの少数言語者は自らの言語を行政語とするのに消極的であり、地域において古リパライン語教育者を増やして欲しいという旨の意見も増えてきていることから古リパライン語教育の拡充は全人民から望まれる結果となっていると結論付けた。しかし、既にクワク・シェユにおいて古リパライン語が行政や教育における地位を獲得していたこと、Xelken系住民の比率が高く生活の中でも古リパライン語が必要とされていたことなど市民の要求に沿った政策であったと共に、教科としての少数言語が設置されたとしても古リパライン語教科との選択とされていた場合、後者が圧倒的に選択されたために少数言語母語話者に対する母語教育は縮小され続けたという経緯がある。一方、クワク・シェユでは単一言語政策を基本的に支持するものの古リパライン語の選択に対しては疑問を抱くような人間も多くは無かった。イェラファと共に殺害された21人のうちの一人であるレシェール・ツァーメナフは特定の民族語を単一言語政策に取り上げることがクワク共産党の矛盾であり、この場合古リパライン語を取り上げるのではなく、完全に階級的でなく全ての民族の深層を記号の中に秘めることが出来る新たな民主主義的言語を作り、この単一言語政策を進めるべきであるとした。このような思想はツァーメナフの死と共に潰えるが、後の新たな原理主義的Xelkenやスクーラヴェニヤ・クランのユーリエン学説に基づく国際補助語などの考え方に影響を与えることになり、Xelken.alesはその中で再編した言語ノヨ・リネパーイネの普及を目指したのであった。


5.2. ユエスレオネ本土の社会と言語

5.2.1. 革命とイェスカと言語政策

 ピリフィアー歴2002年5月2日、ターフ・ヴィール・イェスカを中心として設立したユエスレオネ共産党は各シェユ政府によって非合法組織に定められ、私軍を構成していたユエスレオネ共産党は宣伝局長であるアレス・デュイネル・エレンの「革命抗戦・愛国統一・階級解放」を唱えて、武力革命を推進した。これにより同年同月12日、ユエスレオネ内戦が始まることになった。最終的に2003年12月8日に全てのシェユ政府は降伏し、革命が完遂し連邦制国家である「ユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦」が成立することになった。ユエスレオネ共産党は自党による一党独裁体制を敷き、ターフ・ヴィール・イェスカはその中で絶大な権力を持っていた。

 ターフ・ヴィール・イェスカの言語思想を知るためにはまず、彼女の生涯を知る必要がある。

 ピリフィアー紀元後17世紀、民族自決の興隆によって世界戦争に陥るというさなかのことである。この頃の言語政策に関してはナショナリズムの強力な影響を受け、その上民族自決の概念から少数言語への排除的政策が行われたのが特徴的であった。イェスカはこのような時代に生まれたのであった。1769年に生まれたターフ・ヴィール・イェスカは青年期は次のように右翼活動に傾倒していた。

「Phil.1769年にレアディオブルミッフェル戦争最中のデーノ共和国に生まれ育つ。疎開地のラネーメ国で1780(11歳)にしてラメストテロの被害を目の当たりにし、xelkenに強い憎悪を抱くようになる。1998年(28歳)で第二次ホメーンアッシオ戦争で祖国の敗戦を知り、祖国の解放のためにリパナスに傾倒するようになる」

 時期がナショナリズムの時代であったことと、言語政策が当然に排除的であったことからこのような思想に傾倒したということは当然であった。しかしながら、途中からイェスカは差別主義や階級主義を嫌ってリパナスを離れてしまう。後に友人から革新チャショーテへの参加を要望され、チャショーテへ参加し、精力的に革新派の思想書を読み耽るようになる。2000年、ユエスレオネにおける政府再編における地上政府の横暴と搾取、階級闘争を目的に同じく革新チャショーテのターフ・フューザフィスや妹のターフ・ヴィール・ユミリアと共にユエスレオネ人民解放戦線を設立し、武力闘争路線を抑えながら、言葉による説得で無血革命を行なおうとする方針を固持する(説得主義)、2001年、FQXEによって社会主義や共産主義に対する規制が強まり、言論活動中の人民解放戦線メンバーが逮捕される事件が発生する。2002年、自ら残りのメンバーを纏め上げ、ユエスレオネ共産党を設立。宣伝局長アレス・デュイネル・エレンを立てて武力闘争を煽動した。2003年、ユエスレオネ社会主義連邦の成立と共に自らが首相となる。こうしてユエスレオネの首相になったイェスカは自分の思想を共産党独裁政権下で推し進めていくわけであるが、イェスカの心の中には一つ以前の時代で起こった出来事が心に残っていた。ファスマレー国語化運動はとにかくユエスレオネ共産党メンバーであるラヴィル・ド・エスタイティエ・ラタイハイトなどの人物が関係していた運動であるわけだが、この運動はイェスカの多言語政策に強く影響を与えた。しかしながら、イェスカはユエスレオネにおける行政言語政策と教育言語政策に関する政治の進行は余り推進されなかった。第一次社会主義ユエスレオネ時代においてはリパライン語の標準化と言語的安定化が政権の言語行政の最初の責務となったのであった。


5.2.2. 2003fと計算機開発・言語監査特別委員会と標準化

 ピリフィアー歴2003年、ターフ・ヴィール・イェスカの革命改革計画に沿って連邦情報処理研究所(FAFss)が設立され、イェスカの目指す革命的計算機「2003処理器(2003f)」の開発が始まる。2003fには、現代技術の大集成となることが社会から求められており、人民やメディアからもその進捗を見つめられ続けた。小説にも次のように教育に早期の段階から導入されていることが分かる。

 リパライン語かと思いきや、その内容は全く何も分からなかった。リパライン語というより、どうやら記号が並べられているようだ。シャリヤは目を細めて"co firlex?"と訊いてきた。

"Fgir es 2003f'd noner. Mal, sysnul io mi letix…… lasvinielet mal elx…… deliu mi tydiest krantjlvile'l."

"2003f......sti? Ar, sysnul io deliu co tydiest krantjlvil?"

 シャリヤは翠の質問を訊いて、"Ja"と答えた。

 2003fが一体何なのかは良く分からないが、どうやらこの記号がずらずら続いている文章は、学校で学んできたことに関係しているらしい。テーブルに広げられた紙の横に学校の校章が載った一冊の本があった。表紙の上側に"ferlesylirlberrgiurle"と書いてある。もしかしたら、2003fとかいう何かに関係するものなのだろう。

「異世界転生したけど日本語が通じなかった」, #135 一部編集)

 2003fの開発にはPMCFやハタ王国などの国外から様々な人間が集まった。外国人が多く開発者として集められた理由としては、単価が安かった、外国人を政治的に共産化し連邦の政治的影響力を広げようとした、リパラオネ人公社が反革命的な動きをしたなど様々な説があるが、後世になってどうしてそうなったかは良く分かっていない。ともかくリパライン語が母語でない労働者が国家的プロジェクトに大量に流入したということがここでは問題であった。外国人技術者は一般的にリパライン語をある程度話せる人物であったが、開発中にこれら技術者が書いた文法や表現の点で怪しいリパライン語が大量に現れるようになった。このためにチェック部門として中央省国際協力院に「計算機開発・言語監査特別委員会」が設置されることになった。この委員会は後の言語翻訳庁や言語学士院の先駆けであるわけだが、言語行政に力を入れていなかったところで幾つもの問題が発生し、対処する必要に迫られてゆく。連邦公用語としてのリパライン語の方向性を決めたのがこの時期の委員会であったとされる。

 2003fの開発過程においては多言語の保護にイェスカが意識を持っていたとしても多言語対応が目指されることが少なかった。当時、計算機開発に掛けられる予算は限られたものであり、共産主義政権の中で時間と資金の掛かる多言語化を開発と同時並行していたわけではなかった。2003f等の多言語化が図られるようになるのは第一次社会主義ユエスレオネ時代の後期の自由経済の導入後であり、市場拡大として行われるようになったと考える向きが大きい。そもそも、文字対応の時点で左から掛かる母音字があるバート文字や結合音節文字であるパイグ文字、大量の燐帝字母の標準化などラネーメ系言語を導入する際には処理の面で容量的にも開発速度的にも限界があったためこれらは後回しにされることになった。


5.2.3. 公共性を担保する言語としてのリパライン語標準化

5.2.3.1. リパライン語標準化の必要性

 2003f開発で多言語対応が放棄されたからといって、リパライン語を導入するにあたって問題がないわけではなかった。当時、言語翻訳庁はなくリパーシェの並べ方には複数の意見があった。また、リパライン語の綴り自体連邦政府で一律的な正書法規則を定義しているわけでもなく、シェユの各地で綴り方にばらつきが出ていた。

 また、共産党の方針として、各民族言語の保障は理念として重要なものであったが、その前にユエスレオネを統一する公共性を持った言語が確立されていないことに問題があった。独立国家戦争時代からユエスレオネ革命のリパライン語に対する言語計画が明確な方向性を持たなかった結果、ユエスレオネのほぼ全域でリパライン語が通じるにしても文章語としてのリパライン語が確立しない結果となっていた。これは独立国家戦争時代から革命までの間に文語である古典リパライン語へとユナ・リパライン語を織り交ぜていく向きが強調されていき、国ごとのリパライン文語が成立していたからであった。

 デュイン戦争が終了し、ハタ王国との国交が成立しデュイン総合府へのユエスレオネ連邦の支配が始まると文語リパライン語の規範が明確になっていないことに対して様々な動きが見られるようになる。出稼ぎや移民、デュイン人に対するリパライン語教育の規範をどうすべきかは討論の的となって、言語監査特別委員会は計算機開発以外の言語政策の方針を示すようになってゆく。

5.2.3.2. デュテュスン・リパーシェの正書法

5.2.3.2.1. 文字順

 まず最初に提起されたのがデュテュスン・リパーシェの正書法の問題であった。シェユによって独立国家戦争時代の国家が決めたものに由来するバラバラな文字順が使われており、順番を示すのに混同が起こっていた。基本的にユエスレオネで使われる文字順はラネーメ国で使われていたラネーメ式、リパラオネ連邦で広く使われていた旧連邦式、その他の国で広く使われていたクワイエ式の三つであったがこの他にも文字順の混同を嫌った言語思想家が作り出した独自の文字順や正書法も存在したため混沌とした状況になっていた。

《ラネーメ式》

p, b, m, f, v, fh,

c, s, x, dz, z,

t, d, n, l, R,

k, q, g, h,

j, w,

a, e, o, i, u, y, r,

《旧連邦式》

p, b, m, n, l, R, t, d,

c, z, s, x, dz,

k, q, g, h, f, fh, v,

j, w,

a, e, o, i, u, y, r,

《クワイエ式》

p, c, t, k, f, fh,

b, s, d, g, v,

m, n, l, R,

x, dz, z, q,

j, w, h,

a, e, o, i, u, y, r,

 計算機開発・言語監査特別委員会はこの状況に対して「文字コードを定めるのにも、どれが公式に採用して良い文字順なのか決める必要がある」と国会で答弁した。共産党政権はこれらのどれを採用した場合でも独立国家戦争時代の国家に対する優先性を持つことから、新たな文字順の作成を求められた。こうして成立したのが現在「言語翻訳庁式」と呼ばれる監査委員会式デュテュスン・リパーシェである。

《監査委員会式》

p, fh, f, t, c, x,

k, q, h, R, z, m,

n, r, l,  j, w, b,

vh, v, d, s, g, dz,

i, y, u, o, e, a,

 この方式が他の方式よりも先進的だったのは、共産党の政治方針に従いながらもそれまで正式な文字と認められていなかったvhを正式な文字として採用していたことであった。また、r/Rのいずれも正式な文字として認めているところはこのあとのrer綴り問題へと繋がっていくことになる。

5.2.3.2.2. rer綴り問題

 2003fの開発当時、r/Rに関して大まかに三つの派閥が存在していた。

枝のrer

発音に応じて巻き舌のrと長音のrを明確に書き分けるべきである。発音を明確に書き分けたほうが読みやすく。移民外国人へのリパライン語教育に主に使われる。

伝統的方法

昔は同一の文字であり、直前の文字で発音の区別ができる以上書き分ける必要はない。学校教育に用いられている。

xelkenのrer

(xelkene’d rer)

長母音をVrとして後世に明確化させた場合のみ長音のrを表記するべきで、それ以外はRで書くべきである。保守的な勢力によって用いられる。

 これらの表記法はユエスレオネ連邦成立当時は統一せずに用いられており、個人の言語意識によって使い分けられていた。しかし、2003fと監査委員会の働きによってrerの綴り分けは一定の方向性を得ることになっていった。これらをまとめて「rer綴り問題」と呼ぶ。


5.2.3.2.2.1. 枝のrer

 枝のrerは、発音を明確に書き分けることによって読みやすく、覚えやすいため基本的に非母語話者に対するリパライン語教育に用いられた。つまり、2003fの外国人技術者チームに対するリパライン語教育は枝のrerを用いて行われたために2003fのシステムは枝のrerで作られた。公的な移民に対するリパライン語教育はこれに基づく成果により、枝のrerで一般的に教えられるようになり、リパライン語で書かれた小説などで非母語話者であることを表すために用いられるようになった。

 枝のrerは子音の後や音節頭は巻き舌のr、母音の後は長音のrと明確に書き分ける方式であったが、/rl/の綴り方にはまた問題が起こっていた。

 /rl/の音声は[ɹ]か[ːl]であり、この/r/をどう書き分けるべきかという問題である。これによって枝のrerは下の3つの派閥に分かれた。

枝のrerの四方式

kranteerlの書き方

shrloの書き方

説明

枝のzis

kRanteerl

shRlo

子音の後はR、母音の後はr

恣意的なzis

-

-

rlかRlに統一する

-フリッチのzis

kRanteerl

shrlo

必ずrで表記する

-レイチャットのzis

kRanteeRl

shRlo

必ずRで表記する

 監査委員会が推奨したのは枝のzisへの統一であった。Jekto(2018)が提唱している[15]ようにrlが[ɹ]になるのは/r/の後に鼻音・摩擦音が立たないという禁則に基づくものであり、話者によっては[ːl]で発音する場合があるため母音の前でRlと綴るのは学習者に適切でない発音を意図させ、子音の後の/rl/は[ɹ]以外に読みようがないためこちらはRlと綴るほうが実情にあっているというのが監査委員会の主張であった。

 一方、恣意的なzisと総称されるフリッチのzis、レイチャットのzisの支持者の主張は、/rl/のみをその他の二字一子音の綴りと分けて特別に扱う必要はなく、どちらかに統一することによって音声の規則を減らし学習しやすくするというのが基本的な目的であった。フリッチとレイチャットのどちらを選択するかには明確な基準が無かったため、伝統文法に依ったり、「フリッチは碑文体では非分化であったので、レイチャットを採用するほうが伝統的である」などという枝のrerの本来の方針から完全に外れたような非生産的な議論が行われるようになった。

 結果的に2003fに採用された方式は監査委員会が提供した移民リパライン語教育の中で採用された枝のzisであったが、ある程度ユエスレオネの情勢が落ち着いて、移民言語教育へと意識が向くようになると枝のrerは学習段階のうちで一時的に用いるものであり、漸進的にリパライン語ネイティブが日常的に用いる「伝統的方法」へ移行することが求められるようになった。


5.2.3.2.2.2. 伝統的方法

 大半のリパライン母語話者が前提としていた表記法は「伝統的方法」と呼ばれていた。リパライン語高度話者(つまり、母語話者や自立したリパライン語学習者)の表記法や革命直後に整備された義務教育課程である「連邦教育課程」を受ける高度話者に配られる教科書にはこの「伝統的方法」が用いられている。

 「伝統的方法」のrer綴りの方針はつまりrもRも元は同一の音素であったので書き分けないということである。リパライン語の/r/は本来[ʁ]であり、リパライン祖語からユナ・リパライン語に発展していく過程の中でこれが子音の前や語頭では[r]に、母音の後では弱化して消滅し前にあった母音が代償延長した。このような言語学的経緯がわかったのは19世紀にターフ・ナモヴァフなどに始まるリパライン比較言語学が興隆してからであり、綴り字議論においても影響を与えた。「伝統的方法」自体はそれら言語学的以前から存在していたが、こうしてr/Rは音素的にそもそも同一であったということが喧伝されると高度話者のこのような正書法は正当化されるようになっていった。

 しかし、書き分けないと言ってもリパーシェにはrとRが存在し、どちらを選択するかには議論があった。大半はrを使って全てを書く派閥であったが、委員会が公聴会を開くたびにRを採用するべきであると主張する勢力は存在し続けた。基本的に委員会が「伝統的方法」で支持していたのはrを使って書く方法であり、殆どの母語話者の正書法はこちらを採用しており、rとRを考えた時前者のほうがシンプルであるという主張であった。

 しかし、議論はフリッチ(R)とレイチャット(r)の文字のどちらがより古かったのかという方向へと進むことになった。無批判な伝統主義の採用を主張し、双方の支持者が参加した公聴会の議論は泥沼化していった。議論は委員会の制止を無視し、公聴会の外部でも過激化した。ユエスレオネ共産党一党独裁体制下、唯一発行を許されていた党の機関紙である「微笑み」(後の「ユエスレオネ中央新聞」)の投書欄でフリッチ派とレイチャット派は批判の応酬を続け、フリッチ派の一部がレイチャット派の投書を名誉毀損として訴えるなどにまで発展した。

 監査委員会は両派の終わりの見えない応酬の中、「伝統的方法」の統一案に関して党の政治判断に任せるということを国会で答弁し、問題を共産党の政治問題へとエスカレーションした。共産党は監査委員会の投書の統一案を支持することになり、結局の所このような暴力的な方法で「伝統的方法」は大半が支持するレイチャット統一派を現代標準リパライン語正書法として制定することとなった。

5.2.3.2.2.3. xelkenのrer

 Rer綴りの中で最も保守的なものが「xelkenのrer」と呼ばれるものである。つまり、元々[ʁ]に由来するものをRで書き、長母音が[ʁ]の代償延長以外で発生したものに対してはrで書き分ける流派である。「xelkenのrer」という名前は「最も保守的である」というイメージから付けられているものであり、政治結社やコミュニティとしてのXelkenとは何の関係もない。このような語源意識に寄った書き分けは伝統的方法とは対照的なものであり、独立国家戦争時代に始まり、当時ユエスレオネ革命の時期まで一般的に行政文章などを表記する際などに用いられてきたrer綴りである。

 「xelkenのrer」の基本的な定義は上に述べたとおりであるが、実際には語源意識が人や社会集団によって異なるため、監査委員会は「xelkenのrer」を表記するために標準化する辞書(公認xelkenのrer辞書、CXRL)の編纂に追われた。だが、辞書一冊を編纂するのには数年間掛かる(実際に初版CXRLが出たのは五年後の2008年である)のに対して、行政文章は次々と出ていくことになるため、監査委員会は辞書の編纂と行政文章ではどちらで書くべきかという質問を同時に受ける事業に務めることとなった。

 xelkenのrerには語源意識ごとの細かい変化とともに、ユーゴック語など急増した外来語の/r/などに由来する[ʀ]を起源としない[r](外来の[r])をどう書き分けるのかという問題も発生した。これに対して監査委員会は「歴史のレイチャット」と「記号のフリッチ」という二つの立場が存在することを明らかにした。前者は「Rはかつての[ʁ]であった/r/にのみ用いるため、外来の[r]はrで書くべきである」というもので、これが成立したのは歴史を重視し、語源に基づき後世の変化や外来語をrで区別しようとする意識が働いているためであるとされている。後者は「rは非代償延長的長音を表す記号としてのみ用いるため、外来の[r]はRで書くべきである」というもので、これが成立したのは[ʁ]に由来するものをRで書き、それ以外をrで書き分けた時rを記号的なものであると考える意識が働いているとされている。

理祖語の/r/に由来

理祖語の/r/とは無関係な長母音

外来語の/r/などに由来

現在[r]などで読まれる

枝のrer: R

xelkenのrer: R

-

枝のrer: R

歴史のレイチャット: r

記号のフリッチ: R

現在長母音で読まれる

枝のrer: r

xelkenのrer: R

枝のrer: r

xelkenのrer: r

-

Jekto(2018)より作成

 監査委員会は最終的に行政文章には慣例的なものを除いて記号のフリッチを用いるべきという決定を行った。これは行政文章は書きやすくまた人民に読みやすいものである必要があるため、歴史のレイチャットより暗記数が少なくなる記号のフリッチを採用するべきであるとしたためであった

 現在のユエスレオネでは、圧倒的に「伝統的方法」を用いる場合が多い。「xelkenのrer」を使った文章は行政文章や過去に出版された著書などで使われているくらいであり、大昔の教養人が使っていたものであると考えられやすく、堅苦しい行政文章以外で現代使っている人間は気取っていると思われがちである。しかし、ピリフィアー歴2008年に設立された「サラリス会」を始めとするxelkenのrerで文語文章を推進する団体も出てきている。


5.2.3.2.3. 語源派正書法と表音派正書法の対立
5.2.3.2.3.1. リパライン語の文字史と綴り問題

 rer綴りも問題の一つではあったものの、更に大きな問題として正書法の語源主義(クランターファーテヴェネル)と表音主義(クランターカンテル)の対立が存在した。この二つの派閥を理解するにはリパライン語の文字史を軽く知っている必要がある。

 リパライン語の文字表記は古リパライン語の時期から始まっており、それはラネーメ表意文字で書かれたものであった[16]。Falira(2017)によれば、ラネーメ表意文字は単一の文字体系ではなく、複数の文字体系の集合である[17]。リパラオネ人王朝時代の記録は少なく、解読できているのは燐帝字母とラネーメ表意文字の関係を証明した燐字学の成果のうち、次の時代である混じり書き時代で単語が同じであることを前提に分かっているもののみであった。リパラオネ人王朝が崩壊し、ラネーメ王朝が成立すると燐帝字母の整理が行われるが、即座に王朝と経済的関係にあったクレオス・ド・メアパトロネストたちは古リパライン語の文字表記にこれを用いた。また、燐帝字母とともに、補助的にロライヘル文字という音節文字が用いられた。ピリフィアー歴紀元前4490年ごろから、ラネーメ王朝で混乱が始まると古リパライン語の表記には燐帝字母が使われなくなっていった。理由としては、王朝での混乱によってクレオス・ド・メアパトロネストが安定した交易が出来なくなったためである。王朝との書簡の交換がほぼ無くなり、書記されるのは国内の事情のみとなった。書記官は覚えるのに苦労を要する燐帝字母の利用を止めて、完全にロライヘル文字を使うようになったために燐帝字母は徐々に記録からその姿を消した。また、表意文字を使っていた時期の影響によってこの時期までは続け書きがなされていた。

 古リパライン語の表記体系の第三発展段階であるロライヘル文字の時代では同系統の文字体系を転用したものがヴェフィス語(ヴァンデーファ文字)やアイル語(シュペー・ペル・ア・アイル文字、シュペライル文字)にも使われていた。このために古典リパライン語のロライヘル文字表記では積極的にこれらの言語の表記を借用して訓読していた。


 上の図はその例であり、本来のロライヘル文字の読みでは上からatamu, nua, reae, iou, makaというアイル語の単語であるが、実際はその右側にある古典リパライン語の単語で読まれた。最初期の古典リパライン語文献研究では、現代語に通じるラネーメ語の借用語であるとされていた。しかし、研究が進むうちに文字通り読むと詩の韻律に合わないことから、訓読がなされていたという事が判明した。また、特定の燐帝字母を書き写すのに使われた「燐字翻語」という単語も存在している。ラネーメ表意文字や燐字ロライヘル文字混じり時代で使われた表意文字に相当する単語は後世で固定され、その単語を訓読していた。燐帝字母の軸、値、周、集、類という字は、それぞれintal(理語音韻学のインタール), talg(数、数字), tlenttal(理語音韻学のテンタル), trike(集める), katto(類似、似たもの)という単語で後世では書かれた。しかしながら、これらの単語は燐帝字母の意味範疇の広さに合わせて、訓読されることになった。例えば、trikeはtriko(集まること)、listempent(集中する)、-mjn(多くの)などで読まれた。デュテュスンリパーシェなどのアルファベットが出現するのはこの後の時代である。ロライヘル文字が崩れ、音節文字がアルファベットへと変化し、ADLPがリパライン語を支配言語として広めていくにあたって、書記体系としては覚えるのも書くのも簡易的なこれを採用した。非母語話者がリパライン語を覚えていく中で、続け書きは崩壊してゆき分かち書きが定着した。デュデュスンリパーシェ文字自体は、現代リパライン語にも用いられる文字であるがこれは活字体や手記体と呼ばれるものである。これらの字体が異なる経緯は以下の通りである。独立国家戦争時代の民族主義風潮の高まりによって、旧リパーシェ文字からデュデュスンリパーシェ文字を使う運動が興り、これによって、国家が文語リパライン語にデュデュスンリパーシェ文字の碑文体を基礎とした書写体を正書法として採用したことに始まり、それが定着した手記体が自然と成立した。そして、この両者を参考にした活字体が生まれ定着したのであった。古典リパライン語に用いられていた碑文体から発展した活字体は音韻体系が異なるために字母が追加されている。

5.2.3.2.3.2. 語源主義と表音主義の由来

 ユエスレオネ革命後、標準化されようとしていた文語としてのユナ・リパライン語には大量の借用語が流入していた。過激な語源主義的正書法の文書では、ヴェフィス語やフラッドシャー語は、スペルそのままでリパライン語に流入し、ラネーメ諸言語は上記の通り表音文字の訓読を含め、リパーシェを元に成立したパイグ文字やタカン文字、バート文字を元になった文字へとそのまま転写したものを書いて借入元の言語の音で発音するなど読むのには多大な言語知識が必要になった。そこまで行かないにしても一般的な語源主義的正書法を読むに当たっては、多言語の知識がなければ膨大な量の暗記が必要であった。こういった語源主義に対して名目上リーサ・カクザの「言語保護論」やヴィヨック・イヴァネの「多言語社会統合発展言語行政枠組み」などを支持し、識字率を上昇させることを目的としていた共産党や外国人言語教育の現場に当たって煩雑なものを排除したかった言語監査委員会、またそういった政治勢力を支持する民衆は表音主義を支持した。このために結果的には国家と民衆ぐるみで語源主義的正書法は扱われないようになっていくことになる。

 しかし、完全に表音主義的な正書法になったかというとそれもまた違った。語末二重子音の単一子音化、古典リパライン語に基づく綴り、綴りと発音が異なる慣例的な表記などは残った。

語末二重子音の単一子音化

edioll(ediol), wioll(wiol), liaoll(liaol), 複数の-ss(s)

古典リパライン語に基づく綴り

shrlo(xrlo), yad(jad), vegaftse(vegafze)

慣例的な表記

lkw(lukur), vsfafgh(vusfafuguh), liqka(likka/likkwa/likuka), simfgh(simfug), fqa(qa), fgir(gir), knloan(kunloan), virot(vi’ort), lecu(les), fqiu(qiu), fgiu(giu), cene(cerne), xale(xar’le), notul(notl), valtoal(valtol)


5.2.3.2. 簡化語(人民語)運動

簡化語運動(人民語運動)はナデュー語などによる分かりづらい語彙を基本語の派生語で表そうとする運動である。イーストラルト・リーナ・アイリーナン・ミナミラハ・フーン・アライサによって言語純化による簡化(人民化)も提唱されたが殆どの単語は定着しなかった。現在では第一次社会主義体制時代の雰囲気を残す単語として扱われている。

意味

元々の表現

簡化語

現代

nytyr

novil

無い、存在しない

dupysn

nefmolen

学校

jesnyp

lerssergal, lerssegart

開ける

jieluj

pen

身体症状

stediet

lixerrdirjeium


5.2.4. 国会と教育国語標準化施策

5.2.4.1. 言語集中政策の策定

 2004年3月より行われたショレゼスコの影響でユエスレオネ共産党は社会党になり、民主化及び自由経済の導入が行われた。この影響でユエスレオネでは経済恐慌が発生し、最終的にはPhil.2004年6月19日、イェスカはXelken.valtoalの青年に暗殺されることになった。社会党の党首はイェスカからその妹であるところのターフ・ヴィール・ユミリアに変わり、それまでの武力闘争など党のタカ派を牽引していたアレス・デュイネル・エレンを含め強硬派を除名し、社会民主主義体制を推進していくことになった。民主化の次年である2005年の連邦議会選挙では社会党は51.34%の得票率を得て過半数の議席を得て与党となった。

 ユミリアを擁した社会党内閣はLILC支持の観点から、新たに言語政策を策定した。連邦議会議員長であるアレス・レヴィア・エルメネーフェアフィスはLILCを基盤としたマクロな政治的観点を含めた方向性を規定する「言語集中政策」、通称LZELをピリフィアー歴2005年10月に策定している。

  1. 母語教育→アイデンティティ醸成、貧困対策
  1. 連邦における少数者集団の母語への自信はアイデンティティを醸成し、文化を保持する。その自信と文化は少数者を貧困から回避する。母語教育は社会保障である。
  2. 連邦での母語教育による言語保護はその母語で守れる環境への長年育まれた知識を保護することに繋がる。言語保護は環境保護である。
  1. 多数派社会・言語教育→社会統合、安全保障
  1. 連邦における少数派への多数派統合言語教育は言語権の重要な点であり、社会統合と安全保障に直結する。また少数派や女性が社会と接触する際に重要な場所となりうるため国が率先して整備すべきである。統合言語教育は社会保障であり、安全保障である。
  1. 母語行政→権利保障
  1. ユエスレオネ国民が母語で行政を受ける権利は憲法で保証されている。母語行政は護憲活動である。
  1. 多言語教育→外在する者の受容、抽象的言語能力の獲得
  1. ユエスレオネの子供が多言語教育を受けることは言語的少数者だけでなく、多様な価値観を認め、抽象的言語能力を獲得し、連邦国民として不可欠な意識と可能性を開花させる。多言語教育は人間開発である。

 エルメネーフェアフィスは国会の答弁で次のように述べている。

        「2003年憲法でも定められている通り、ユエスレオネ国民には言語権が保証されて

おり、また教育権と平等権が保証されているものであります。我々は国民を保護し、統合し、発展するために言語集中政策を策定するのです。」

 このようにして、定められたLZELはユエスレオネ連邦のこの後の言語政策の中核的視点となった。また、明確に言語への方針を決めることにより、ユエスレオネ社会としても言語に対する注目が高揚することになった。その一人として、リパラオネ人言語学者のスクーラヴェニヤ・クランはピリフィアー歴2006年に「身体としての言語権」を提唱した。そこには「母語やその他の言語は身体の一部であるので、自由に用いることを制限するのは身体の自由を保障するユエスレオネ連邦憲法第二章第八項に違反するものである」とした。


5.2.4.2. ユエスレオネ連邦における言語法規定

 ユエスレオネ連邦における言語保障に対して、LZELが定められてからその法的な視点が重要視されるようになった。

 ユエスレオネにおける言語意識はユエスレオネ共産党の結党から存在していた。ユエスレオネ革命の前期、革命求心力の向上のために革命歌の作成はどんどん推進されていた。その活動の中で作られた「国際共産主義活動よ、連合せよ」、通称ISDEは現在に至るまで長く歌い続けられている革命歌である。作曲は「イェスカ万歳」を作曲した革命軍少尉であるアレス・レヴィア・クランにより行われたが、作詞は誰が行ったかはっきりしていない。この作詞者不明の歌詞のうちの五番では言語重視の姿勢が既に見える。

5.

Naldeseno ad fallergen lkurfel's

alsat es les kalt ad palpten molo.

Cierjustel! Lecu sesnud misca'd meu

fua fqa's elmal'c niv mak iso!

M'ansajarsox' alser's,undermunder stedel.

yuna adit vefis, hata, linest, fedi'a's

dejixeceen veýl'i kyrna mal aduarne.

Ispienermedarneust shrlo da enomionas !

5.

民族とそれぞれの言語は

全て最高の品格と独立した存在である

団結せよ、我々の言語を守ろう

我々が二度と戦禍に巻き込まれないために

全ては和解し、世界平和が達成される

ユナとヴェフィス、ハタ、リナエスト、フェディアは

お互いの文化を理解し合い、前進する

国際革命運動よ、連合せよ!

 明文化された文章として、政治的・法的根拠を持つものとしてはピリフィアー歴2002年1月7日に共産党で採択された党の綱領であるファールリューディア宣言が挙げられる。宣言の第四条に「我々は党の方針として言語多元主義を掲げるものであり、国及び地域の行政は各地域とそこに住む民族の言語を保護しなければならない。」ということを掲げている。共産党及び社会党の方針として受け継がれたこの綱領は、連邦における言語保障の基盤となった。また、ピリフィアー歴2003年1月3日に作られたユエスレオネ連邦憲法の第二章第五項では、言語の保護と尊重を受ける権利が示されており、第六項では言語差別を受けないことを保障することが明記されている。これらの基盤から成立したのがピリフィアー歴2005年10月にアレス・レヴィア・エルメネーフェアフィスに策定された「言語集中政策目標」である。ピリフィアー歴2006年1月20日に締約されたサニス第二条約では、第四部第二条第一項に言語差別を受けず、法の元に宣言に認められる全ての権利を有することが明記されている。この条約はユエスレオネ連邦とハタ王国、スキ・カラムディアの間に結ばれ、言語保障の概念を世界に広めた。こうして言語保障や社会言語学的ノウハウはサニス条約機構総会・人間開発分科会(ETCA-LLLC)を中心として、世界中で生かされるようになった。


5.2.5. ユエスレオネ市民社会での言語社会的動向

5.2.5.1 ユーリエン学説と国際補助語

 ユエスレオネ革命後は急激な言語保障意識の高まりもあり、それに伴って伝統的な言語保障の概念を継承して国際補助語を提唱した人物も居た。ピリフィアー歴2005年にリパラオネ人言語学者であるスクーラヴェニヤ・クランはユーリエン学説に基づく国際補助語概念から、国際補助語を作り出すことになった。

 ユーリエン学説とは、ユエスレオネ連邦がハタ王国と接触した後から提唱された学説であり、ピリフィアー歴2003年に比較宗教学者であるフィシャ・ステデラファがリパラオネ教とトイター教の核心的教義の共通性からそれらの根源が同じであるとしたところから始まり、ピリフィアー歴2004年にその研究を継承した比較宗教学者ターフ・ヴィール・マヴィヤが提唱したものである。カラムディアとファイクレオネの人類の起源は同一であるとし、ケートニアーがカラムディアにある程度古代から存在するという考古学的見地に基づくものである。スクーラヴェニヤはこれを更に推し進め、リパラオネ諸言語とラネーメ諸言語とリナエスト諸言語を含むシアン大祖語とカラムディアのイブエ・ガッライ語族などの頂点に立つカラムディア大祖語の共通点としてのユーリエン祖語を想定し、それから単語を採用するべきであるとした。また、スクーラヴェニヤの主張は共和制時代のクワク・シェユの言語思想家であるレシェール・ツァーメナフの思想が影響している。スクーラヴェニヤはこれをまた更に発展させて、単一言語による民族語の消滅を目指すのではなく特定の母語を取り上げることによる不平等や不規則性が必ず存在する自然言語を取り上げることが国際語として不適切であることなどを挙げて、民族語を保持しながら、平等で簡単な言語を公用語として用いるべきであるとする運動であった。

「クワク・シェユにおける単一言語政策はリーサ・カクザの時代からの個別言語権に対する軽蔑に過ぎないことであった。レシェール・ツァーメナフは、特定の民族語を共通言語として用いることを批判していた。リパライン語帝国主義的圧力はショレゼスコ後のこの社会の中で特定の民族語が絶対的な優位を持つような社会が構成されていくようになるのだ。これを防ぐためには非リパラオネ圏に対しても平等な人工言語を作って民主主義的国際補助共通言語として用いることが重要なのである。」

(「ユーリヴィーレのために」, phil.2005)

 こうして出来た「ユーリヴィーレ」はファイクレオネにおける人工言語としての国際補助語運動の先鋒となった。ピリフィアー歴2006年、スクーラヴェニヤを中心に全世界ユーリヴィーレ学会、通称JKAUが設立された。学会には作家であるシャール・クラナント・ヌイビェルシャ・レーカや社会党宣伝局長のヴェフィザイト・ヴェイザフィスなどの著名人もおり、半年に一回の全国大会が開かれた。しかし、ユーリヴィーレがリパラオネ語族やラネーメ語族に由来する単語が多いということやファイクレオネ言語偏重な文法構成に対して批判が集まり、多数の分派が成立した。ユーリヴィーレは作成者の権利を主張せずに、自由な利用による発展を目指していた。しかし、分派は言語を改変する権利を固定化したり、教条主義的になって使用者が言語を発展させようとすることを阻害したために広まらなかった。ピリフィアー歴2007年の第二回ユーリヴィーレ全国大会では、ユーリヴィーレ自体の中立性は利用によって発展させ、言語に含まれた平等で簡単で言語多元主義を認める考え方を推進することが約束された。


5.2.5.2. 「人を殺すフォント」と「人を殺す不統一」

 ピリフィアー歴2005年に元連邦情報処理研究所職員で2003fの設計・開発に携わっていたシャール・クラナント・ヌイビェルシャ・レーカは著書『人を殺すフォント』を発表した。

 この小説では、連邦情報処理研究所に所属する外国人研究員を主人公として極秘の異世界探査プロジェクトのプログラムでのcとlとoの書き間違いを見て、修正を行おうとするものの正式に参加していなかった主人公が政治的な理由で特別警察に勾留され、留置所に設置されたテレビを通して打ち上がった探査船が爆散して、火の玉となって地上に落ちてゆくのを見るという衝撃的な終わり方をする。シャールは著書を通して見づらいデュテュスンリパーシェフォントと連邦の堅苦しい社会に問題提起を行い、広く議論を興した。主にプログラミングにおけるフォントの問題は投書から専門家の中で大きな問題として取り上げられていたこともあり、プログラミング用フォントの開発を加速させた。一方、リナエスト言語政策やリナエスト言語学の研究者であるユレイシア・アレスは現代中央リナエスト語における数詞体系の利用がリナエスト系リパラオネ人やリナエスト系ラネーメ人、もともと現代中央リナ語を喋っていたリナエスト人、リナエストコミュニティで育ち、外部でリナエスト言語を習得して二言語共用の環境で育ったリナエスト人などの間で数詞の利用などが違うことが一般的になっていることに着目し、『人を殺すフォント』を引用してこの不統一が破滅的な事故へと発展することに警鐘を鳴らした。この指摘は引用された小説にかけて「人を殺す不統一」と呼ばれた。

5.2.5.3. 統合のためのリパライン語教育

 ピリフィアー歴2003年のデュイン戦争終戦以降、ユエスレオネでは主に東諸島共和国連合諸国やハタ王国からの出稼ぎ労働者を中心とする住在外国人が増え続け、総人口の9%に近い人口を占めた。これに加えてデュイン戦争によってユエスレオネ連邦の傘下となったデュインにおける非リパライン語話者(或いは古典リパライン語話者)を含めると約五人に一人はファイクレオネ外にルーツを持つ国民になった。これら非本土人はネフズュジテーと呼ばれ、多くは現代標準リパライン語を話す能力に疑問があるとされる。また、ユエスレオネ国内では、ユーゲ人や穏健派Xelkenなどの一切リパライン語を使わなくても生きていけるコミュニティが存在することは多数派社会との周縁化を招き、無理解と誤解を生んだ。

 ネフズュジテーやユエスレオネでその子供として生まれた人間の言語保障問題や移民の社会統合が失敗しつつあったことなどを含め、言語集中政策の観点からユミリア社会党政権はまず統合化を推し進めていくことになった。まず、ネフズュジテーを中心にリパライン語能力が不十分な者に対して無償の公的な現代標準リパライン語教育と社会統合ワークショップが受けられるようにした。これは大学機関や公民館などが協力して行う社会統合としての言語文化教育として位置づけられており、言語集中政策目標の二つ目にあたる。また、移民関連法を改正し、デュイン(後にファルトクノアも含まれる)及び国外からユエスレオネに永住資格もしくは労働滞在許可を取得し、入国するネフズュジテーに対して統合テストを導入した。この統合テストの導入には野党のみならず、社会党と同じ左派連合のクワク社会党の批判を受けたが、排除的なものではないとして最終的には合意を得て導入されることになった。内容としては言語と文化を中心にしたもので、公的な統合教育を受けてさえいれば楽に合格することが可能であるレベルに設定された。過去問題は書店やネットワーク上からダウンロードすることで見ることが可能であり、再受験は何回でも可能である。また、試験を受けず滞在資格を失う期限は五年となった。この統合テストの導入には、ショレゼスコ後の連邦企業が本来公務員の専門的言語能力を測る連邦公務員言語能力試験第一類(FILI1)の取得を外国人労働者に対して過度に要求していることへの対策でもあった。


5.2.6. ユエスレオネ現代文学

5.2.6.1. 詩文自由運動からレスバスカラスタン運動まで

 イフトーン時代から韻詩文復興運動(4.1.)が長らく続けてきた保守的文学思想はユエスレオネ社会主義政権の成立とともにその地盤が揺るぐことになった。

 韻詩文復興運動は1500年代中盤から2000年代初頭までの五百年間ほど支配的な詩の形式思想となったが、ユエスレオネ革命以降は2003年の社会主義政権の成立などによって、この支配的な韻律・音数から脱却する詩文自由運動が新世代の詩人たちの主流となった。それまでの固定的な詩の形式を反動的思想の根源と見たユエスレオネ共産党も前衛的なこの運動を後押しして推進したことにより、多くの作家が世にでることになった。

 デュイン戦争後のハタ王国との交流を経て、ユーゲ人の言語であるユーゴック語文学へのフロンティア的精神による文学的模倣であるレスバスカラスタン運動は2010年のデュイン・アレス独立戦争へのハタ王国の参加やハタ王国からの多くの出稼ぎ労働者、宗教家、事業者の流入によるユエスレオネでの公での芸術活動の変革により、急速にリパラオネ人・ラネーメ人のリパライン語韻詩文創作者の間に広がった。レスバスカラスタン運動は詩文自由運動の分派の一つとしての性格が強いと共にそれまでのスカメイ文学などの影響でユーゲ人やその文化、トイター教的価値観に憧れや好奇心を抱く反リパラオネ・ラネーメ的世界観を元に文学的影響が後押しされたと見られている。代表的な作品としてユーゲ系デュイン人のジルコディスナル・ガイリフィヤによる『ハットイ人の逆襲』などがある。

 また、言語思想家の中にはユエスレオネの融和的言語政策が多言語の文化を受け入れる土壌を育てたとする見方もある。レスバスカラスタン運動批判の先鋒である言語思想家のフィシャ・ユミリアは、ピリフィアー歴2010年にユエスレオネの言語政策が多言語文化を受け入れる土壌を育て、レスバスカラスタン運動のように表出したがこれは共産主義ユエスレオネ時代の社会構造との境界から現実のルートを通って架空の理想郷を描き出しているものであるとし、このような架空の理想郷があたかも現実のハタ王国やユーゲ人、ユーゴック語文学やトイター教的価値観を綿密に表したわけでもないのにも関わらず、そういった理解が蔓延することで彼我への偏見が固着することを非難した。

 このような社会構造から逸脱した新しい社会構造を架空の理想郷として書く方向性は後のユエスレオネ現代文学へ強く影響を与えることになった。ワシュンデーン・ドゥスニイラクランティェン、通称WD文学はハタ王国やPMCFとの接触に寄る異世界文化との接触をモチーフとした文学としてユエスレオネ革命後は人気を得たが、これにもレスバスカラスタン運動の背景があった。一方でこのような非現実的な空想小説に対して、現実的な労働闘争や革命を題材とした労働文学が流行ったのもこの頃である。代表的な作品としてターフ・ヴィール・イェスカの『革命序説』やターフ・セレズィヤによる『蒼旗を掲げよ』などがある。

 ターフ・セレズィヤは『蒼旗を掲げよ』を筆頭に初期の連邦映画で様々な作品を作り上げた。セレズィヤの映画は大衆文化を構成し、鑑賞するための知識が必要なく、感覚的に楽しめる大衆映画の走りとなった。労働文学を中心としたこのような大衆映画はユエスレオネ共産党やその傘下の宣伝部が後援することでヴェフィス市民革命やユエスレオネ革命を主題に労働者や党の関係者、ユエスレオネ主義者などの思想家が封建政府や共和政府の圧政に立ち向かうような作品群が中心となった。このような大衆映画は革命後のユエスレオネ連邦国民に人気を得たと共に共産党が進めた現代標準リパライン語の推進の意向に沿って、標準化された口語で作られるようになっていった。標準口語で作られた大衆映画はユエスレオネ本土での標準語の一般化に一定の進歩を与えたともいわれている。


5.2.6.2. 国際的青年文学

 国際的青年文学は第二次社会主義ユエスレオネ時代から国際的な交流が活発化し、出版などの自由化で発達したものである。キャラクター性を強調するヴェフィス的サブカルチャーの傾向やウェールフープやケートニアー、連邦に羨望するユーゲ・ユースカルチャーの傾向、古代・近代ラネーメファンタジーの流行にコンピューターの発達やWD文学の発達が重なって成立した。

 2003年後期にはユエスレオネではこういった作品の基盤は揃っていたが、共産党独裁下では広まることは無かった。むしろ、ユエスレオネでは興国と復興、革命と発展をテーマとした大衆映画とそれに影響されたサイエンス・フィクション小説が若者に人気を得ていた。代わって、PMCFに属するヴェフィス共和国では一部ではあるがコミュニティを構成するほどに一つの領域を作り上げていた。広域通信が発達するとこういった青年文学も国家間でやり取りがなされるようになり、ユエスレオネ連邦の本土ではそういった様々な要素が織り込まれた独特なジャンルとして成立している。

 例えば、ヴェフィス的サブカルチャーの影響でトレフォリア関係が強く取り上げられた。ラネーメのお嬢様とヴェフィスの戦士という構図が良く出てくる。上記のトレフォリア関係を基本として、連邦においてプロレタリアートと残留ブルジョワジーの懐柔政策として若い男女をパートナーにして生活させたなどとする設定を連邦式トレフォリア関係と呼び、「トレフォリアもの」として一つのジャンルを構成している。

 こういった国際的青年文学に対してもレスバスカラスタン運動的な考え方が波及していると考える者も多い。ユーゲ・ユースカルチャーが影響を与えた作品やトレフォリア関係のような連邦本土人にとっては少数派で遠いような存在の特別な部分を抜き出して取り上げることにより、架空の理想的な空間を作り出すことは国際的青年文学においては更に強化されていると言える。

5.2.7. 現代メディアにおける移民風リパライン語

5.2.7.1. 移民風リパライン語の成立

5.2.4.3. で述べたようにユエスレオネ連邦には移民や非リパライン語系母語話者であるところのネフズュジテーが大量に流入しており、定住するなどして国内でコミュニティを構成している民族も存在する。ユエスレオネの言語教育政策は言語集中政策目標に基づいた母語教育と多数派言語、つまり現代標準リパライン語教育を両立する方針へと切り替わっていた。しかし、この切り替わりが現場レベルで即座に行われたとは言えず、現代標準リパライン語に混ざる母語の影響は軽蔑されていた。当初はブロークンなリパライン語は連邦市場で利用価値のないものと捕らえられ、社会的成功を妨げると考えられた。しかし、ショレゼスコ以降10年の間にアンダーグラウンドな音楽などにこのような移民風のリパライン語が取り込まれていった。新聞や小説、そしてコメディを通して移民風リパライン語は更に一つのキャラクターを得て、更に外国人の話すリパライン語を取り込んで一つの役割語として成立していくことになった。

 こういった一つの役割語が急速に発展していく裏には、言語集中政策の影響が強くある。 コメディでは移民を笑いに転化させることが一つの笑いのジャンルを構成した。これは言語集中政策の多文化共生教育や大量に流入する移民への危機感や反発が芸能の点で表出したものであろうとされている。そこで移民を笑いに転化させる過程で移民特有のリパライン語表現が固定化した。逆にそういったものを肯定的に捉える人々も移民特有のリパライン語表現を真似しようとしたり、理解しようとして定着させる一端となっていた。


5.2.7.2. 移民風リパライン語の特徴

5.2.7.2.1. 逆流語の多用

 移民風リパライン語の中でまず目につくのは逆流語(ナシゼーアーフェゼン・クラシャユン)である。逆流語は移民の母語に輸入された変形したリパライン語が再度移民風リパライン語に輸入されて訛った形のままで使われる語のことを言う。特筆すべき点としては、これらの逆流語は外来語として移民の母語に取り込まれたときに意味が変わっているにも関わらず逆流するとリパライン語の元の意味に戻るということである。

逆流語

原語

原義

mewli

リナエスト語 meyr-i /ɱeɯɻɪ/

<リパライン語 mole

禁忌、罪

melfirzi

リナエスト語 múvr't-i-ti /ɱortiːʦi/

<リパライン語 melfert

探索する、冒険する

larmbji

リナエスト語 ravmvp-e /rambʲe/

<リパライン語 larvhi

樹皮、毛皮

dhorlun

リナエスト語 xol-ë /ðɔːlœ/

<リパライン語 selun

子供、初学者、初心者

若い、幼い、疎い

xerlner

リナエスト語 zsägl-ä /ʃæːnlæ/

<リパライン語 xilnar

寒い、冷たい、涼しい

lyrsnirta

パイグ語  ly ni1 ta1

<リパライン語 li’usnirta

リウスニータ

fhirnorxonas

パイグ語 hui2 no1

<リパライン語 finorxonas

シナモン

fhirnartz

パイグ語 hui2 na1

<リパライン語 finatz

バニラ

xirchirar

パイグ語 xi zi a

<リパライン語 xici

~さん

tulijo

東島通商語 tulijo

<リパライン語 tuli’o

土手

acil

ユーゴック語 asir

<リパライン語 acirl

ラジオ放送

kosnusta

ユーゴック語 kosnusta

<リパライン語 kosnust

白い、清潔な

ku’ante

ユーゴック語 kuante

<リパライン語 qante

自己主張、アピール


5.2.7.2.2. リパライン語の方言・近縁語の混用

 移民風リパライン語では、リパライン語の地域方言や近縁言語の要素を取り入れた語法が多く見られる。一見方言のように見える要素は、特定の地域に限らず様々な方言要素を混ぜて用いられている。例えば、”jella”(標準語”jel la”)はデュイン方言の単語であり、デュイン移民のみに限らずユーゲ人やPMCFの移民労働者も用いる。”kertniar”や”nertni’ar”のように元となる方言(デュイン方言)ではnakraptの有無が統一されるにもかかわらず、わざわざ標準語と異なる方を選択しているような語の選択も存在する。

(移民風) Harmie jella jun? Cene niv mi albes dugs male deliu inarxt a. Ers qar qar las le jurlet fea ekunlano o iuset? Swanefor! Swanefor! Ale? g’ers snynisn, ers neferl? Ej, xici jan icce nif mien anles!?

> どう思んだ?俺はそっら勧めらんねえからぁ、相談したほうが良いと思うぜぇ。んなこたぁより、メシ行かね?奢っぜ、奢っぜ!は?忙しいから無理?おい、おめぇ俺の好ぅ意ぉ受けとらねぇ気かぁ!?

(標準語) Harmie jel la? Cene niv mi aubes la lex gelx deliu co inarxt. Lirs, lecu miss tydiest knloano? Anlyes niv! E? ers snynisn gelx cene niv tydiest? Merc, jol niv co icve mi’d anlyes!?

> どう思う?俺は勧められないから、相談したほうが良いと思う。そんなことより、俺達は一緒に食事行かない?え、忙しいから行けないって?なあ、俺の好意を受け取らない気か?

jella デュイン方言「感じる、思う」

jun パイグ方言「疑問の相位詞」

albes ファルトクノア方言「勧める」

dugs 裕福語「それを」

male パイグ方言「それで、だから」

a パイグ方言「語末の間投詞」

e kunlan 東島通商語「食べる」

o iuset パイグ方言「疑問の語末表現」

qar デュイン方言「それ」+パイグ方言的反復表現

swanefor ヴェフィス語 ”coinée faut”「私の支払い」

xici パイグ方言「(男性への呼びかけの意での)旦那」

jan デュイン方言「~しよう」

icce デュイン方言「受け取る」

nif アイレン方言「~しない」

anles アイレン方言「好意」

 標準語とは大分異なるにもかかわらず、その話し方が芸能的なキャラクターを強調するものであると受け入れられる一端にユエスレオネ・ユースカルチャーが現代におけるコミュニティからの言語文化的同調圧力や教育規範に反感を覚えやすかったために形成されたと見られている。

 方言がまぜこぜにされていてもそれがそのまま定着しているのは、移民風のリパライン語がコミュニケーションに用いられる言語ではないからと言われており、ここには移民風リパライン語が「役割語」として発達してきたことが明確に現れている。


5.2.7.2.3. 文法的逸脱

 移民風リパライン語においては、意図的な文法的逸脱が見られる。例えば、形容詞や副詞の語順は現代標準リパライン語では修飾語が被修飾語の前に来るのだが、以下の発言では非標準的な修飾語順となっている。

Co icce acil dytysn?

(お前新しいことは聞いたか?)

Icce dugs jeteson.

(早くそれを寄越せ)

 次の発言例では”lex”を用いた修飾句で後ろから名詞を修飾している。

Nif sfag iulo lex elx edixa co lkurf!

(お前が言ったようなこたぁ考えちゃねぇ!)

 次の発言例では”la lex”が関係代名詞のように用いられている。

Snietol la lex mol fal gir es kosnusta lyrsnita.

(そこにある飲みもんは白いリウスニータだぜ)

 次の発言例では助動詞を”eo lex”で区切る必要があるのにも関わらずそのまま文を繋げている。

Cene niv mi firlex iulo la lex co lkurf.

(お前が言ってること分からないぞ)

 次の発言例では名詞が名詞を修飾する際に属格を用いていないうえ、名詞の単立や呼びかけのときに呼格を用いていない。

Ku'ante co mewli, dhorlun!

(お前の罪を数えな、チビ!)

 上記に表したとおり、移民風リパライン語はエンターテイメントに登場する役割語として多くの文法的逸脱がそのままになっている。こういった文法的逸脱がユエスレオネ・ユースカルチャーにとってはイケていると感じられる要因でもあるようである。


5.2.7.3. 役割語としての移民風リパライン語とその評価

 反レスバスカラスタン運動主義の立場からは移民風リパライン語の存在を非難した。それは事実の移民やその言語相を綿密に表すものではないのにも関わらず広く小説やコメディの中でまるで現実にそうあるがごとく表されたからであった。ただ、このような移民風リパライン語の受容が若年層にあったことはフィシャ・ユミリアが表したとおりユエスレオネの言語教育政策が国民に言語多様性の高い環境を受容する地盤を作り上げたと評価する向きもある。

 移民風リパライン語は本来小説やコメディなどの架空の言語使用の中で成立したものである。フィシャは移民風というという曖昧な名前の通り、民族とも、国家とも、何かの集団とも結びつかない新たな言語文化層が成立しているとしている。小説やコメディで現れた移民風リパライン語は若者が言語的にも、民族的にも、文化的にも多様性のある住宅地域で更に発展していくことになった。アイデンティティ確立中の若者が言語利用の面でも独立を求めて、また連帯を表すために独特な言語を持ち込み、またそれを発展させてポピュラー音楽などに持ち込むことで移民風リパライン語へ規範化の兆しが現れるようになっていった。

 このような経過の中で移民リパライン語に対する市民や学術界の評価は様々であった。連邦理語学士院の発行している国際リパライン語白書では「言語は生き物であり、移民風リパライン語が様々な場面で用いられることはリパライン語の多様性とその柔軟性を反映するものである」としている。このような肯定的な記述に対して、リパナス党の機関紙「マイネ・リパナス」の社説では「リパライン語を非純粋的なものに貶め、また、社会党が行う言語集中政策が行う母語教育でも母語を十分に習得しない原因となりうる」とした。否定的な意見と肯定的な意見の中で社会党政権は学士院の方向性を支持し、また移民風リパライン語を「独立した言語」とは看做さなかった。野党、保守政党も移民風リパライン語を「独立した言語」と見做すことはなく、与党よりも苛烈な批判を行った。

 移民風リパライン語と若者言葉はその地域やグループの接触や影響力で規範化が生じた。市民の中で移民風リパライン語の表現集や語彙集が作られ、それは一つのジャンルを構成した。


5.3. デュインの言語と文化

5.3.1. デュイン史と言語

5.3.1.1. デュイン総合府の成立

 3.2.1.4.4.などで示したとおり、9世紀ごろからXelken.valtoalによる侵略をうけてデュイン・シェルケン政権が成立していた。ピリフィアー歴2002年11月に連邦軍諜報部がXelken.valtoalの情報を受け、デュインに向けて調査員を送るが帰還しなかった。これを殺害されたものと見たイェスカ社会党政権はデュインのシェルケン政権に対する戦争を検討し始める。12月に始まった連邦軍とシェルケンとの戦闘が激化すると共に、ユエスレオネ本土でのテロも発生することになった。安全保障上の問題が取り上げられるようになると共に2003年1月にはカラムディア・ウェルフィセルからハタ王国のスカルムレイ(女王)であるところのカリアホ・スカルムレイは当時の連邦外務相であるアレス・シュカージュと会見を行い現在に続くサニス条約を締約することになった。サニス条約は連邦と王国がデュイン戦争への本格参戦を行うものであり、ハフリスンターリブなどの勢力が介入してきたものの2月にはデュイン・シェルケン政権は崩壊した。2005年3月にはユエスレオネ主導でデュインは八県二自治区の体制となり、デュイン特有の民族自治県体制を確立した。連邦と合同選挙が行われ、保守政党であるメイナ党のクントイタクテイ・アレン・ミリアと革新政党のデュイン社会民主党のドロワサン・ドゥ・ヴェフィサイティエ・ドロワヴェサンの激しい政争が始まり、メイナ党による政権が成立した。5月にはヴィッセンスタンツ人、ファーシュヴァーク人、アポート人、リスターメ人、サラス人、チョルセ人、ズィタラク人、ラッビヤ人によるデュイン先住民族会議が設立した。デュイン・ユーゲ人組織もいくつか設立されている。デュインの人形ラーデミンはラッテンメ人と自称し、独自のラッテンメ評議会を設立している。

 基本的にデュインにおいて行われた言語政策はユエスレオネのものと大きくは変わらないものの政治的失敗やユエスレオネと異なる国家的性質などにより、その方向性は少しづつ変わっていった。デュインにおける多言語状況はシェルケン政権によって単一化されたとは言えなかった。更に移民労働者などによって社会言語的多様性は高まっていくことになった。

5.3.1.2. xelken.alesの台頭とデュイン・アレス独立戦争

 ピリフィアー歴2010年1月にデュイン・クランタル行政自治区区庁がXelken.alesとデュイン独立派によって占拠されたことに始まるデュイン・アレス独立戦争はデュインの言語思想の中でも強いものであり、過激派Xelkenの考え方が未だに残っていることの確証となった。Xelken.alesは2008年にXelken原理主義のグループから分離独立した過激派の一つである。連邦政府を破壊し、シェルケン国家を作ることが目的であった。Xelken.valtoalが古理語の普及を徹底させることを目標にしていたのに対して、Xelken.alesはそうではなく古理語とユナ・リパライン語を再編したノヨ・リネパーイネを普及させることを目的としていた。こういった思想はレシェール・ツァーメナフやスクーラヴェニヤ・クランの思想の影響があると見られており、こういった考え方には生まれてから古理語教育を受けた拉致被害者二世やデュインに住むXelken集団のなかで共感を多く集めたと見られている。デュイン・アレス独立戦争後、解体されることになったがXelkenの中にも言語政策や言語思想の新たな影響が芽生えていくことには多方面での反応を起こした。Xelken.valtoalは連邦と協力して、独立戦争で戦ったが保守派と革新派に分離した。


5.3.2. 民族語の教育言語化とその失敗、欺瞞と解決

5.3.2.1. デュインにおける母語教育政策の推進

 デュインは連邦政府が推進した言語集中政策目標のうち母語教育政策を推進する先鋒となった。ピリフィアー歴2003年6月、デュイン先住民族会議とメイナ党が主導したデュイン先住民言語法が制定された。これはリーサ・カクザに続く、言語保障の考えがデュインでの政策に波及したものであった。

「デュイン先住民言語法では先住民が言語権を行使することが出来る環境を整備し、自らの言語と文化を維持発展させることと、言語集中政策目標及びユエスレオネ連邦憲法を擁護するために言語利用に関して法律に定めるものである。」

(デュイン先住民言語法 前文)

 また、同じ6月に制定されたデュイン移民者言語法ではユーゲ人、リパラオネ人、ヴェフィス人、ラネーメ人、セベリス人、文化的シェルケン集団などのデュイン移民者の言語保障を定義している。メイナ党は先住民言語法との統合を目指していたが、先住民族会議や各々の先住民が文化的シェルケンと同一に扱われることに反対したために叶わなかった。

 デュイン教育言語法も6月に制定された。これはデュインで先住民言語法や移民者言語法において保障される言語で公的教育を受ける権利を明記したもので、これはユエスレオネよりも早く母語教育政策として進められたものとして当時大きく取り上げられた。

 デュインの各県、自治区において行われたこのような言語重視政策の狼煙は多くのデュイン人にも支持された。しかし、同時に行われた現代標準リパライン語の教育に対しては強烈な反対運動が起こった。多くのデュイン人にはデュイン・シェルケン政権の古理語教育の記憶が残っていたからであった。統合言語教育認定校が破壊される暴動が何回も起こり、デュイン政府は対処に手間取ることになった。2004年には、連邦中央議会にて言語集中政策目標を策定した連邦共産党議会議員長であるアレス・レヴィア・エルメネーフェアフィスがデュインにおける統合言語政策としての現代標準リパライン語教育に理解を求めるように声明を出す事態となった。現代標準リパライン語教育が安定して受けられるようになったのは、2010年のデュイン・アレス独立戦争以降のことである。

 デュインでは先住民会議や地方自治体を中心に母語教育体制の整備を開始し始めた。それは教育言語として取り上げる言語とその中の方言のどれを採用するかやその標準化手順、書記言語化と教育言語としての整備という具体的で現実的な過程を踏んでいた。先住民会議に属している諸民族の言語による教育は2009年に一斉に始まり、それ以降にユーゴック語やヴェフィス語、古典リパライン語による教育も順次始まることになった。初等教育の段階から公教育の教育課程を順次先住民語化していくもので、最終的には高等教育機関まで先住民語・移民者語化することで母語教育政策の一旦の完成を目指していた。

 また、その中には文化教育も含まれており、特にユーゲ人やヴェフィス人、セベリス人にはその民族の国家からの支援を受けて教材などを準備し、追加の教育課程を設けることによって自己のアイデンティティの養成と文化継承を目指した。ユーゲ人に対してはトイター教文化やハタ王国・カラムディアの歴史を、セベリス人にはセベリス哲学を、ヴェフィス人にはフィメノーウル信仰文化やヴェフィス共和国の歴史、スキュリオーティエ叙事詩を追加教育の項目に追加していた。


5.3.2.2. 母語教育政策の批判と廃止まで

 ピリフィアー歴2009年から始まった母語教育へは当初から早速批判が出始めることになった。先住民市民からは公立学校教育がデュインの学力の低下を招いているという意見が多く寄せられた。先住民会議は母語教育を推進する側であったが、このような先住民市民の批判を受けてデュイン政府の社会統合言語教育としてのリパライン語教育が疎かになっていると批判した。先住民会議の方針に反して大半の先住民、移住者はリパライン語を用いた単一言語教育を要求していた。デュイン社会民主党のビェールノイ・ザラーヴィヤはメイナ党と先住民会議が主導した母語教育政策に対して「母語教育に採用する先住民・移民者の言語の標準化過程が言語多様性に沿ったものであったか疑問が残る」として非難した。こういった先住民や移民者の行動の裏には先住民・移民語が地位の低さや貧困を象徴し、それに結びつけようとするメイナ党政府を悪しきものと捉え、リパライン語教育を自らを成功と解放へと導く言語として見做す考え方があった。

 こういった考え方にデュイン政治は大きく影響し、2015年のデュイン総合府統一選挙ではデュイン社会民主党が与党に躍り出た。デュイン社会民主党は同年にデュイン教育言語法を改正した。改正教育言語法では民族語教育の項目を変更し、公教育での先住民語・移住者語教育を義務化する条項を削除した。また、リパライン語教育の領域を強化し、実質標準現代リパライン語による単一言語教育の体制へと近づいた。ユーゴック語、ヴェフィス語、古典リパライン語、ヴィッセンスタンツ語、ファーシュヴァーク語、アポート語、リスターメ語、サラス語、チョルセ語、ズィタラク語、ラッビヤ語の10種類で既に行われていた先住民言語教育は2015年内は続行するが、2016年の進級時点からはリパライン語による単一言語教育体制に移すことを目指していた。「民族語は家の言語!社会ではリパライン語を使おう!」というスローガンが上がるほどに内と外の言語利用を分けるこの政策転換に対して民衆のうちからは多くの賛成の声が上がった。それが成功につながったり、様に見える人間像を生み出すと考えられた。公立学校では政治方針に従い母語教育を推進するのに対して、デュインの政治家や上流層は自らの子供をリパライン語での教育を受ける私立学校に通わせていた。デュイン総合府で行われる国会の答弁や演説などは全てリパライン語で行われ、エリートのイメージはリパライン語と結びつくことになった。デュイン社会民主党の政策もこのようなイメージから生まれた民衆の支持を得て2016年の先住民語・移住者語教育停止に至った。このような強烈な政策転換は統合言語教育の強化による穏健なリパライン語教育の強化を目指していた先住民会議やそもそも野党に転落したメイナ党、また本土の連邦社会党やユエスレオネ中央大学などから強烈な反対意見を受けた。特に教育学者や知識人は公立学校における教育の質が低いことは明確であり、それによる学力の低下も顕著であったことから現在の民族語教育からリパライン語による単一言語教育に移行することによってこのような状況が更に悪化することを恐れた。しかしながら、デュイン社会民主党は「デュイン諸語による教授法が確立されておらず、言語整備とそれにまつわる議論がしっかりとした基盤を持たなかったメイナ党による民族語教育政策は失敗であり、その確立までの過渡的段階としては子供たちに十全な教育を受けさせるためにリパライン語による単一言語教育を徹底する」という方針を固持した。

 クランタル自治区ではリパライン語を称賛する内容のデモ行進が行われた。ユエスレオネ連邦がデュインを解放したことにより、彼らにはユエスレオネ連邦の公用語であるリパライン語を受け入れる準備があること、その進んだ文明や思想をリパライン語を通して受け入れ、自らの発信を国際的に展開することによって今まで虐げられてきたデュインの先住民たちがより前進することが出来るという実学主義的な主張であった。しかしながら、その進んだ文明や思想であるところの言語集中政策目標などを全く眼中に入れずにこのような半ばリパライン化運動は情緒的なものとして頻発した。


5.3.2.3. 母語教育政策停止の欺瞞と回復

 デュインにおける母語教育停止はユエスレオネの行政指揮官の介入によって再考が求められることになった。2017年にユエスレオネ連邦からデュインに入った言語翻訳庁の職員などの調査によって教育言語法に基づく移民者語・原住民語の標準化やそれによる教材や教育法の用意のために存在していた予算が汚職や脅迫によってデュイン・マフィアに流れていたことが判明した。また、連邦政府に存在する企業のいくつかが教育言語法の母語教育条項廃止への圧力に関わっていたということが判明した。連邦企業は経済的な理由でリパライン語による単一言語教育が有利に動くと考えてこのような圧力を掛けたものと考えられている。このような調査結果を受けて当時の社会民主党政権はリパライン語による単一言語教育に拘っていないことを再表明し、民族語教育の確立までの教育の質を保つために行っていることを強調した。しかし、メイナ党の総合府議員や先住民議会の追及で社会民主党政権がデュイン・マフィアや連邦本土の企業と内通することによってリパライン語化を計画していたことが発覚した。デュインのマフィアはレロド・フォン・イェテザル、レロド・フォン・サニス、レロド・フォン・デイシェスの三つの派閥が存在し、イェテザル・マフィアは裏にXelkenによる資金源があり、先住民語教育を不快と考えたXelkenによる圧力がマフィアを通じて行政レベルへと波及した。サニス・マフィアは現地警察との賄賂が横行していたために貧しい先住民たちがその母語で警察や行政と通じ合うことで自分たちの資金調達が明るみに出る可能性を無くそうとして行政に圧力を掛けた。これらはユエスレオネ連邦政府が大規模に行ったマフィア勢力の破壊作戦「ラファンカ・ティミーヴェ戦争」によって逆転し、またメイナ党や先住民議会、行政指揮官によって2025年に母語教育は回復することになった。

2003年

デュイン先住民言語法・移住者言語法・教育言語法制定

2004年

連邦議会の統合言語政策への理解を求める声明

2005年

デュイン先住民族会議、デュイン・ユーゲ人組織、ラッテンメ評議会の設立

2006年

デュイン先住民文字標準化

2007年

アポート文字標準化

2008年

デュイン・シェルケン言語保障請求民主戦線(PMSDzL)設立

2009年

民族語教育開始

2010年

標準理語教育の安定化

2011年

PMSDzL・デュイン先住民族議会・ラッテンメ評議会による「ベノーチャ三者合意」

2012年

北洋大震災、重要な文化財の破損などが多発する

連邦から言語翻訳庁職員が派遣

2015年

統一選挙で政権与党がデュイン社会民主党に

教育言語法改正、民族語教育を停止

2017年

連邦言語翻訳庁によるデュイン政府捜査

2021年

2025年

母語教育の回復

5.3.3. 民族語と移民語の個別発展

5.3.3.1. デュイン・ユーゴック語と本土・ユーゴック語の衝突

 デュイン・ユーゲ人は本来シェルケン・デュイン政権によってユーゲ平野から拉致された者たちが殆であった。また、ハタ王国からは社会主義政権を羨む思想家や出稼ぎの低所得者、一攫千金を狙った資本家、それらに追従してトイター教を守ろうとして宗教家など多種多様なユーゲ人がデュインに入植した。これはユエスレオネ本土では第一次社会主義時代にアンデルフィアンと呼ばれる外国人居留地に一定期間の滞在を認められるだけだったのに対して、移民を要求する人々に対してデュインを解放したからであった。デュイン・ユーゲ人たちの多くの言語はピジン古理語や古理語を話しており、ユーゴック語を話すと自認している者は少なく年配者に限られていた。継承されているユーゴック語は古い特徴を残しており、例えば「代名詞と前置詞が頻繁に交代すること」や「-Viで終わる単語の属格形がVyun、Vyurになっている」ことなどである。ハタ王国から移民したハタ・ユーゲ人はそのような古い特徴を保ったデュイン・ユーゴック語を劣ったものと捉えた。ユーゲ人移民の古語蔑視はハタ・ユーゲ人がデュインで運営するトイター通信社がその新聞に「やたらと語形変化の多い言語は神の言葉が伝えられていない多神教時代の言語なので、我々が今使っている言語に劣る」といった非常に保守的な言語感を見せたほどであった。このような考え方に対してデュイン・ユーゲ人はある程度従おうとした。ユーゲ人の伝統を守って、アイデンティティを保とうとしていたが青年たちはハタ・ユーゲ人による伝統の押しつけに対して強烈に反発した。サニス県知事であるクントイタクテイ・ヴァルトル・クランが「ハタ・ユーゲ人とデュイン・ユーゲ人は共同体アイデンティティとして全く異なるものである。」と発言したほどであった。連邦言語翻訳庁は個々のユーゴック語を別のものと捉え、処理した。

5.3.3.2. デュイン先住民諸語の標準化

 デュイン先住民会議が最初の民族語教育に採用したのはある程度話者数があったヴィッセンスタンツ語、ファーシュヴァーク語、アポート語、リスターメ語、チョルセ語、ズィタラク語、ラッビヤ語の七言語であった。標準化は多面的な観点から行われたが、資金不足や非活発化に依って公的な標準化は滞ることになった。2025年までの公的標準化支援の再開まではデュイン先住民会議を中心とした民族語標準化委員会(通称、プロスラーギヤ委員会)が中心となって進められた。2006年に○○○○によってチョルセ人を中心にして使われていた変種を用いてデュイン先住民文字は整備された。アポート文字は2007年に先住民会議を中心として、アポート語学会によって標準化整備された。主要言語の標準化はある程度話者数があるためであったが、デュインの中でも少数の民族の言語は標準化が遅れることになった。ラッビヤ人のホルティンギ・チェフルタ・ユルト・フルチを中心に行われたラッビヤ語標準化は氏族間が協力してお互いの言語を折り合わせることに成功し、標準ラッビヤ文語が作られることになった。


5.3.3.3. 古典リパライン語の標準化

5.3.3.3.1. 古典リパライン語の言語保障問題

 デュイン戦争終結初期ではデュインにおいては古典リパライン語を話すXelkenは戦争犯罪者の扱いを受け、デュインへの渡航が禁じられた。デュインに居たXelkenに属する人間はユエスレオネに強制的に移住を命じられることになったが、数カ月すると共産党はこの非合理な状況に対してXelkenのデュインへの移住権利取得を許可することになった。これにはユエスレオネに移民が大量流入する時代にXelkenなどの原理派を本土へと流れ込ませることを防ぎ、それによるテロが中央政府の機能を麻痺させないようにする予防策であったという見方が強い。問題となったのはデュインにおけるXelkenコミュニティの言語権であった。デュイン移住者言語法や教育言語法では、Xelkenを例外とする法制はされなかったために彼らの話す古リパライン語への保護も同時に行われるようになった。しかしながら、これに対しては戦争による抑圧を受けた先住民や拉致被害者による非難の声や妨害活動が重なり安定した言語保障行政を行うことが出来なかった。これらの影響からデュインのXelkenの中でも言語保障を求める運動が興り、サニス県のシェルケンであるシェルケン・アスクランテシュレイユ(通称、シェラス)を中心にデュイン・シェルケン言語保障請求民主戦線(PMSDzL)が設立された。PMSDzLはデュイン政府や先住民議会に積極的に呼びかけを行った。2011年にはPMSDzL・デュイン先住民族議会・ラッテンメ評議会の三者による「ベノーチャ合意」がなされ、シェルケンによる言語保障が合法的に行われる限り全デュイン在住者に対して平等に行われることを確認した。

5.3.3.3.2. 標準古典リパライン語の成立と反対運動

 PMSDzLとデュイン・シェルケン協会などのデュインにおけるXelkenコミュニティは言語保障を促進させるために標準古典リパライン語を制定することになった。本来Xelkenが継承してきたエスプラタオ方言を中心とした標準語「デュイン・古典リパライン標準語」を制定した。これはユエスレオネ連邦本土で規定している教育課程であるファンセルに含まれる選択古典の古典リパライン語とは別であり、現実に即したものとして規定された。だが、2003年に移住許可が出てから連邦本土からのXelkenも入ってきたことにより問題は複雑化した。移民のXelkenの中には古典リパライン語のラネーメ方言やデーノ方言に由来する言葉を話す話者も居たためにこれが問題となった。エスプラタオ方言を中心として決定されようとした標準語は、いくらかのデュイン・シェルケンコミュニティは棄却し、他の方言要素を取り入れた新たな文章語を成立させるべきだとした。

 多くのシェルケンが定着しているサニス県やシェルタズャートゥンデ県ではベノーチャ合意以来、県の言語保障に用いる言語としてはデュイン・古典リパライン標準語のみを用いていたが、県外からの流入が増えるに連れて方言を保護するべきという主張は強くなっていった。古典リパライン語の方言にはそれぞれ文学が存在し、書き言葉も当然存在している。標準語を教えることは彼らのコミュニティが拠り所とする方言を消滅に追いやると考えられた。結果的に標準語が用いられる方針が変わることは無かったが、それぞれの方言文語の保護には連邦政府の少数言語保護機構が携わり、閉鎖的なシェルケン・コミュニティの中で古典リパライン語の方言の言語保障や記録を行って、デュイン政府と協力することによって方言による言語保障を高めていくことを目指すようになった。

 サニス県やシェルタズャートゥンデ県などでのデュイン・古典リパライン標準語の採用は、県やデュイン政府の経費削減であるという強い批判もある。このような関心が高まるのは2017年の連邦言語翻訳庁の調査が入ってからであり、母語教育の回復とともにこういった方言軽視のありかたも見直されるようになった。


5.3.3.4 共通語としてのデュイン方言

 デュイン方言はデュイン全体7億を超えるデュイン全体で喋られるリパライン語口語の変種である。デュイン方言は方言とはいうがユエスレオネ本土において話されるアル・シェユ方言より標準語と異なっている点が多い。かといって、ラネーメ・リパライン語やアイレン方言ほどの変化をしていないという丁度良い位の離れ方をしている。デュイン方言の特徴としては「古い表現が残っていること」、「標準口語と違って敬語が無いこと」、「接置詞に格支配があること」というところがある。

標準語)

Edixa deliu dznojuli'o chexil akrunfter dyiner'c zu deluses akrunfto lerj fontastujesn

デュイン方言)

Edioll liaxa dicco deluses icco cel acrünfter mejna'l zu duleses acrunfto fal fastarstujësne'c

「政府は先月から翻訳を必要とするデュイン人には通訳を提供しなければならなくなった。」

 デュイン方言はデュインへの入植が発生しなければ生まれなかった言語である。デュイン戦争が終結し、ユエスレオネのデュイン開拓により本土から低所得者のユエスレオネ人がデュイン入りした。他にもハタ王国から出稼ぎに来た低所得者や一攫千金を狙った資本家、それに追従してトイター教を守ろうとした宗教家などがデュインに流入することになった。

 デュインでは第一次ユエスレオネ社会主義時代では開拓労働と呼ばれる粗悪な労働環境での重労働を主にした計画労働が敷かれており、共産党から出向させられた現地指導者によってそれが行なわれていた。現地指導者は大体クワクの出身であったため、DAPEまでに消滅したクワク方言を口語で主に話した。クワク方言はエタンセンス語やリヴァライン語に近い古理語という感じであり、標準口語を話す本土から来た低所得者はおろか、ユーゲ人などの非リパラオネ人系には通用しなかった。このために標準口語を基層にクワク方言の要素を吸収して行ったのがデュイン方言の始まりであった。

デュイン方言はクワク方言だけでなく、入植外国人のユーゲ人を中心に非リパラオネ人系の表現や単語を積極的に取り入れて行った。このため標準語よりユーゴック語起源の単語が多い。

 デュイン方言の発達はショレゼスコによる第二次ユエスレオネ社会主義への突入によって落ち着いた。ショレゼスコによって現地指導者はデュインから撤退、各県の自治力が上がったためにそれぞれの民族語が重視されるようになったが、外国人系デュイン人二世以降の多くがデュイン方言を第一か第二言語として話すこと、デュイン入植者自身がデュイン方言が自分たちのアイデンティティであるとしたためにデュイン総合府を挙げてデュイン方言の維持・記録を推進している。デュイン総合府からはデュイン方言はデュイン全土で通用するリパライン語変種であるとの評価をしており、ユエスレオネ連邦理語学士院も同様の評価をしている。リパライン語話者の総数に食い込むほどの話者数を持つため、ユエスレオネ本土にいてもデュイン方言の話者と出会う事がよくあるが、普通本土ではデュイン方言ではなく標準口語で話している。ユエスレオネ人もデュイン人も方言に対して崩れた言葉、洗練されていない野粗な言葉と考える事は無く、逆に本土人は方言に対して憧れを持つほどである。デュイン人が本土でデュイン方言を話さないのは単純に効率が悪いからという意識があるからである。


5.4. ファルトクノアの言語と文化

5.4.1. ファルトクノア史と言語

5.4.1.1. ファルトクノア共和国の成立

 ピリフィアー歴2012年3月12日、前日未明にハタ王国へのウェールフープ移動を行おうとした外交院職員23名が行方不明になったことが外交院から発表された。連邦特別警察庁長官及び情報特務庁長官名義で当日中に捜索手配を行い、閣僚会議ではハタ王国のテロリストであるところのハタ王国共産党ハフルテュ派やトイター教原理主義者やXIAA紛争によるXelkenによる攻撃である可能性を鑑みて厳戒態勢に置かれた。3月15日、行方不明であった外交院職員6名がユエスレオネに帰還する。調べによって、ハタ王国やデュインとは別の惑星に降り立ったことや他の外交院職員が現地政府に逮捕及び監禁されたことが判明する。固有WP波の痕跡を元に特定した惑星へと連邦軍、特別警察官、外交院職員、国際協力院職員が潜入し、現地政府との交渉を行おうとしたが攻撃を受け外務省職員3名と国際協力院職員2名が死亡し、市街地戦が始まった。交渉に失敗した交渉団が政府にこれを連絡することによって、連邦軍の増員が決定されショアン戦争が始まった。程なくして、交戦勢力であったショアン王国側が降伏し、4月8日にユエスレオネ連邦、ハタ王国、デュイン総合府、ショアン王国によるイルヴィツァー会議で、ショアン王国を国土分譲した。このイルヴィツァー・サニス合意によって連邦に編入された元ショアン王国領土は条約上では北ショアン共和国として数か月存在した。連邦議会はファルトクノアへの国名変更と三権制度の確立までの間は軍政として直接統治を行う形で軍政となった。ユエスレオネ連邦における軍政は、連邦公共安全法を規定とする複数の連邦法典を根拠とする連邦軍による非常事態軍事統制を意味する。連邦軍の統制は、2002年1月7日に制定されたファールリューディア宣言の第八条「我々はユエスレオネにおける傭兵部隊を排除し、正式な革命的国防蒼軍を設立する。」を基底としたものであるが、これは共産党独裁政権崩壊によって否定されている。ただ、シビリアンコントロール原則はその後の連邦憲法に継承されているために軍政は非常事態における連邦議会への三権移譲であるとされる。軍事的要素は法的関係上意味合いが薄い。

 後にファルトクノア共和国が成立した。当時の民族構成は兵士とその家族(主にアル・シェユ在住のアレン・ヴェフィス人)として入っていったヴェフィス人が半数を占めており、元々住んでいたショアン人や少数民族として出稼ぎに入ってきたリナエスト人やユーゲ人、ラッテンメ人(アイラニーヤ人)、ユフィシャール人などが居た。宗教は40%がフィメノーウル信仰であり、20%がリパラオネ教徒、22%がトイター教、18%がその他である。議会ではヴェフィス社会行動党の党首であるラヴィル・ドゥ・エスタイティエ・ラタイハイトが首相となった。ラヴィルは本来単なるユエスレオネ主義的な国家を目指していたが、段々と過激化してゆき社会行動党はすぐに議会を停止しユエスレオネ共産原理主義的な政治体制を整備するようになった。宗教集団や政治的な集会を解散させ、全ての社会行動党以外の政治活動を禁止した。このような方針は言語行政に対しても強く影響した。


5.4.1.2. 苛烈な連邦化政策の様子

 ファルトクノアでは、建国当時からラヴィルに主導された連邦化政策が行われた。国内のみに限らず、租借地に対しても第一次社会主義ユエスレオネ時代のユエスレオネ原理主義を実現するために宗教迫害、政治活動の禁止が強行された。租借地に対しては現地の通貨を排斥し、貴族階級を見せしめに公衆の面前で焼き殺すなどした。民族や文化を浄化して連邦と同化することを目指した。国内ではこのような連邦化の名目で少数民族に対して差別的な扱いが行われた。特に人工獣人であるところのラッテンメ人に対しては苛烈な差別が市民の間だけでなく公的にも行われた。これは後のファルトクノア内戦の原因にもなった。

 小説「刃とアグリェフ」はファルトクノア内戦の開戦から終戦までを描く作品だが、第一章から差別的扱いの様子が明確に描かれている。

 軍服の男は少女の腹を蹴り上げた。人間から出る音とは思えないような音と共に地面に叩きつけられる。踏みつけた虫のように少女は地面で腹を抱えて細かく震えながら倒れ込んでいた。

「批判するつもりか?」

 カギエは、先制攻撃を加えようとしたノウヴデリエを手で退け、獣人の少女を一瞥した。

「共和国兵は本日は屋内待機のはずですが、一体どういう事でしょうか。」

 男たちはそれを聞くとニヤニヤしてお互いを見合った。

「いやなあ、こいつがよぉ」

 つま先で背中を突かれても、少女は震えながら特別な反応をすることはなかった。

「こいつは俺の奴隷なんだが、言うことを聞かないつもりらしくてな。せっかく、戦場から連れ出してやったのに恩知らずだからちょっぴり痛めつけてやろうと思ってな。」

 ノウヴデリエは戦慄を覚えた。俗に共和国兵のあちこちで噂になっている正規兵の獣人奴隷の問題である。正規兵らは戦闘の後獣人を捕縛するのだがその報告の量は女性が男性に対して異常に少なかった。つまるところ、捕まった獣人は大体強制収容所に送られることになるので、それを助ける代わりに獣人の女を共和国兵は性奴隷としているということだ。

「そういや、お前ら屋内待機のことを知ってるってことは招集兵のやつらだな?お前らも獣人に恨みがあるだろ?」

 男は持っていた鉄パイプをノウヴデリエたちの前に落とす。

「やっていいぞ。まあやらないで、逃げるんだったらお前らを内務省警察に軍紀命令違反で引き渡すまでだけどな。」

 

「刃とアグリェフ」, 第一章)


5.4.1.2. 連邦化政策による言語差別とその理論化

 内務省言語庁の長官であるクロウン・ドゥ・トゥタイティエ・クロートゥハイトは、ファルトクノアのヴェフィス社会行動党が主導する連邦化政策に賛同し、苛烈な言語政策を推進した。まず、母語教育を完全否定し、教育言語は確実に標準リパライン語を用いることになった。これはデュインでの母語教育政策の失敗で2015年に母語教育が停止され、母語教育自体が学力の低下や精神的発達に影響を与えるという誤った解釈がファルトクノアに伝わったためであった。こういった表面的な結果と連邦化政策を根拠にして、クロウンはどのような言語の話者であっても一律に標準リパライン語教育を強制した。教育現場では方言札に似たinlefi'aver(公共の場で話すべきでないものを話した者)と書かれた木の板が首に掛けられる場合もあった。この板が掛けられた生徒に対する体罰も恒常化し、少数民族差別と同調して残酷な人権侵害を起こした。

 店や看板に使うことが出来るのはデュテュスンリパーシェに属する新理字の字体で書かれたリパライン語のみになり、ユーゴック語で用いられる文字やラネーメ諸語の文字を用いた場合刑罰を受けることになった。ファルトクノア内戦前にユーゲ人の商人が店を開き、その看板にユーゴック語を用いたために短機関銃で射殺されたことに始まり、ファルトクノアの街頭からはリパライン語以外は駆逐された。出版、放送、そして町中でも会話に至るまでリパライン語による会話が強いられることになった。ファルトクノア共和国軍は連邦軍からの上官やこういった政策による影響もあり唯一の作業言語がリパライン語になっていた。徴兵制によって全国から集められた様々な民族がむらなく構成されるように配置され、お互いの言語が通じない状況では兵士同士のコミュニケーションで使われる唯一の言語となった。また、入出国が自由だった初期にはファルトクノアの経済状況が悪かったことから出稼ぎが他国に出国しており、ユエスレオネ本土へ出稼ぎをするためにはリパライン語が必須であったということもあった。

 このようなリパライン語の押し付けの結果としてファルトクノアの少数民族やショアン人の中にリパライン語を母語とする人々も出てくるようになっていった。

5.4.1.3. 教育言語としての標準リパライン語導入の失敗と内戦

 標準リパライン語を用いる教師、教材は安価で簡単に質の高いものを用意できたにも関わらず、ファルトクノアでの学力レベルは上昇しなかった。急に導入した標準リパライン語教育は標準リパライン語を母語とする少数の生徒には有効に働いたが、標準リパライン語を理解しない大半のファルトクノア人には全く逆方向に働いた。ファルトクノア優性庁はファルトクノアの学力水準を三年以内に連邦本土と同等まで引き上げることを目指していたが、予定とは逆行して学力は横ばいで推移した。初等学級からいきなりリパライン語を用いた教育を行うことで、先住民の中では母語もリパライン語も中途半端な語彙力、文章言語能力しか持てなくなり、親や教師との意思疎通が図れなくなった生徒が発生するなどした。

 このような政策は2034年の内戦開始まで続いた。2034年7月27日に開戦したファルトクノア内戦は少数民族でありファルトクノア・アイル語を話すラッテンメ人がリパライン語公用語化を始めとする連邦化政策の押し付けに反発する形で起こった。内戦中に反政府勢力として立ち上がったミーゲン・ラネーミャン自由解放のファラヴェ(MLFF)の支配下に置かれていた地域では反動としてヴェフィス語、ファルトクノア・アイル語やショアン語による純粋な表記に置きかえられ、標準リパライン語による表記が取り除かれた。それでもなお、インテリ層や若者などがアイデンティティを誇示するために標準リパライン語を混ぜて用いたり、コードスイッチングして話す人間が居なかったわけではない。これは長年のリパライン語公用語化の押し付け政策で固定観念が出来ていたことを伺わせる。


5.4.1.4. 戦後政権による言語保障復興

 内戦後にファルトクノアは第二次軍政に突入し、連邦による整備を経て選挙が再開された。初の戦後政権にはミーゲン・ラネーミャン自由解放のファラヴェの主席であったアイラニーヤ・アレス・レヴィアの妹で次席であるところのイプラジットリーヤが選挙で選ばれ首相になった。MLFFが内戦中に連邦化政策の反動として行った民族語の強制的な純化と適用は戦後政権によって否定された。連邦からは言語集中政策に従うように指示されており、またイプラジットリーヤ自身も過激な政策に走ることを否定したからであった。また、国家社会制管理主義段階的運用統合計画(ICALIA)が目指した地上の楽園という概念に対してイプラジットリーヤが抱いていたものは民族語の押し付けではなく、各々の言語の違いのグラデーションとそのパッチワークをお互いに認めあえるということであった。

 内務省長官のルーナ・カピディ・マーナミッハ・ドゥーレディはイプラジットリーヤのその思想に賛同したが、まず高等教育機関をそれぞれの主要な民族語で設置することを主張し、様々な大学が設立された。ヴェフィス語によるヴェフィサイト大学、ファルトクノア・アイル語によるアイラニーヤ大学、ショアン語によるファルトクノア・ショアン大学、タウニラウィッリー語によるタウニラン大学、ユフィシャール語による諸島中央大学などが代表ケースとなった。それらの教育学部から中等教育機関の民族語化が推進されていき、異なる民族語教育機関の間でもお互いの民族語教育の手法の共有だけでなく、民族語自体を教え合うネットワークが構築されていった。このような教育機関の民族語化の過程はルーナ・モデルとしてデュインなどでも共有された。

5.4.1.5. 終わらない文語と口語の大きな乖離

 長年に渡る連邦化政策でファルトクノア国内の口語と文語は民衆の中で大きな乖離が起きていた。リパライン語優性主義が民衆の間では染み付いており、内戦以後も文章は標準リパライン語で書かれるのが一般であった。戦後政権による民族語の文章の推進は中々民衆の中に受け入れられず、「民族語よりもリパライン語で書いてある文章のほうが信用できる」という意見が一般的になっていた。対して口語は自由化が進み、多くの民族語が社会の場で認められるようになった。ユエスレオネでは多くの人間が多様な文章語によって暮らしているが、ファルトクノアでは文章語の多様性が戻ることはなかった。


5.5. PMCFの言語と文化

5.5.1. PMCF成立と議会言語騒動

5.5.1.1. 東諸島共和国連合の成立と言語行政方針

 東諸島共和国連合(PMCF)は2002年に成立した国家連合体である。ユエスレオネが上空に逃げたのに対して、PMCFは地上で成立したアイル共和国・ヴェフィス共和国・リナエスト・オルス共和国の三つの共和国によって成立した。2003年にユエスレオネに発見されるが、それ以来ユエスレオネに対しては長らく中立的な立ち位置を取っている。PMCFにおけるユエスレオネの影響は2004年に一時期強くなり、新左翼が成立するが諸共和国では全体的にこの傾向が後に収まるようになった。各々の国家はユエスレオネよりも低い民族密度であったが、言語問題が少なかったわけではなかった。

2002年

東諸島共和国連合(PMCF)成立

2003年

PMCFがユエスレオネに発見される

ユエスレオネ革命の政治難民が流入する

自治体決議111号が議会言語を全ての民族に中立的な物を採用すると規定

2004年

PMCFにおける新左翼の成立、カーダン通訳事件

ユエスレオネ難民のアイル共和国における言語保障請求が始まる

2005年

アイル共和国で言語保障を訴えるデモ隊に発砲

2006年

ヴェフィス共同体の成立

2013年

アイル共和国とヴェフィス共和国がリナエスト共和国に宣戦布告

2014年

リナエスト内戦

5.5.1.2. PMCF議会言語問題

 三つの共和国の連合としてPMCFが成立するとPMCFの全体に法的拘束力を持つ東諸島共和国連合議会が成立した。まず最初に問題となったのがこの議会で用いられる言語を何に定めるかであった。当初、自国の多数派言語を推進する政策を取っていたアイル共和国やヴェフィス共和国は共にお互いの言語を用いることを譲らず、PMCF議長リアシェン・L・K・アリュースを擁する議長国リナエスト・オルス共和国は板挟みに合うことになった。リナエスト・オルス共和国でも同じリナエスト人とはいえ辺境リナエスト語、中央リナエスト語、東リナエスト語、西リナエスト語などが話される多言語環境の中で自国の言語を議会言語として利用することが強く主張され、議会ではお互いの言語での討論が始まってしまい、一時はお互いに理解出来ないまま議会が閉会することが続いていた。この状況に危惧を覚えたリアシェン議長及び東諸島共和国連合議会は委員会を招集し、それぞれの共和国に住む全民族に中立的な言語を採用することが2003年に自治体決議第111号で定められた。そして、議会言語が決定するまでは各自各言語の通訳者を用意して決議を行うことを決定した。2004年に重大な誤訳事件であるカーダン通訳事件が発生することによって、この通訳者を多用する体制が長くは続かないという印象を与え、議会言語の議論は活発化するようになる。


5.5.1.3. カーダン通訳事件と議会言語議論の対立

 2004年にアイル共和国のアイル語・ヴェフィス語通訳者カーダン・ガートゥ・ヴォーギタイム・バートニーマシュ(kádan ghátu woghitaim bhátnímaṣ)による重大な誤訳事件が発生した。連合内で行われる選挙の有権者年齢統一を目指す自治体決議案第291号の会議中にカーダンは「反対意見を唱える人」や「異説を捉える人」を表す“epaoja zunaiir asuka”をヴェフィス語で「異教徒」を表す”paussist”で訳した。これにより「(有権者の年齢統一に反対する)この反対者たちは選挙に参加できるだろうか」という発言を「この異教徒たちは選挙に参加するべきではない」と通訳してしまった。議会は紛糾し、ヴェフィス共和国とリナエスト・オルス共和国両国が宗教を名目に選挙の不平等を行おうとしたとしてアイル共和国の代表者と当時の首相であるヴェルガナ・トゥワイ・ズュザ(velgana twaji-siusa)を強く非難した。アイル共和国はすぐさま通訳の調査を行い、カーダンがパイグ語の別論人(pau1 zui1 cuk2)と同根であるヴェフィス語の”paussist”を想起してしまったと結論づけた。誤解はアイル共和国の宗教差別を糾弾する目的で開かれた他二国の自治体決議案第291号第三分科会で解かれたが、これ以降PMCFの各国は通訳を多用することによって議会が混乱に陥ることへの恐怖感を覚えるようになり、積極的に自治体決議第111号の実現を議論するようになった。これをカーダン通訳事件(PMCF側では「パウ・ツイ・スック事件」)と呼ぶ。カーダン通訳事件を境にアイル共和国とヴェフィス共和国は姿勢を変えていくことになった。当初からの議会利用の対立は別の内容となって対立軸は変わらなかった。アイル共和国は当時スルプ・ルクプ(恨めしい言語)やハダ・ルクプ(崩れた言語)と呼ばれていた言語を議会で利用するべきとし、対してヴェフィス共和国はユナ・リパライン語を議会で利用するべきと主張した。アイル共和国はヴェフィス語と同系統であるリパライン語を用いるのは不平等であると主張し、ヴェフィス共和国はそれに対して東島通商語は崩れたリパライン語であり、到底文語として使うことは出来ないと主張した。PMCF では、語族や語派の異なる言語を使用していたり、政治的平等性を欠くなどの理由から、リパライン語は共通語として妥当ではなかった。そこで一般的に広く使われているリパライン語を使い、「平等に不平等である」状態にすることにした。しかし、全員が流暢にリパライン語を操れるというわけでもなく、異言語話者間で崩れたリパライン語を話すうちに、ピジン言語が形成された。次第に母語話者も現れ、今日のクレオール言語たる東島通商語が生まれるに至った。

5.5.2. 各国における言語政策

5.5.2.1. アイル共和国における言語と社会

5.5.2.1.1. アイル語の強要と反発

 アイル共和国では建国当初からアイル人ショマディパイ族出身のヴェルガナ・トゥワイ・ズュザ首相がアイル語を国家言語として推進する政策を進めてきた。島ごとに存在する言語の口語的利用はそのままで、文章語をアイル語に統一しようとしていた。これは独立国家戦争時代における啓蒙主義的言語ナショナリズム政策に対する民族主義的強い反発であり、最も話者数が多いアイル語が国家言語として取り扱われるべきであるという中央政府の考えが波及したものであった。これに対しては皇論宗教家に強い反発を受けることになった。皇論ではタカン語を宗教言語として用いることと、心を圧することを忌避する宗教的方針という二つの理由によってアイル語以外の言語の文章語を認めない政府の方針を受け入れることが出来なかったからである。しかし、皇論主義者は心圧を避けるため、政策批判に積極的に参加することは少なかった。


5.5.2.1.2. 連邦政治難民の流入と言語保護のための戦い

 連邦との接触の直後から、ユエスレオネ連邦から脱出する政治難民をアイル共和国は人道的な支援として国を挙げて受け入れるようになるがこの難民たちに対しては全くもって言語保障的政策はなされなかった。難民の子供たちはアイル語が分からないままに学校に入れられて、リパライン語によるクラスや補習が全く無い中で不登校が相次いだ。アイル語が分からない大人たちも多くが職を得ることが出来ずに生活に困窮する結果となった。同じリパラオネ教徒だとしてもフィアンシャで行われる説教などは全てアイル語で行われており、大人も子供も必要な宗教的援助を受けることが出来ないだけでなく、フィアンシャから追い出される場合も多々あった。このような状況に対してユエスレオネ難民たちはデモ活動による改革を目指し、アイル共和国中の難民を集めて首都のマカティでデモを行って共和国議会の入り口を占拠した。老若男女が集まったデモ隊は中心に拡声器とスピーカーを持った数人の青年によって要求が読み上げられた。これに対して、トゥワイ・ズュザ首相はアイル共和国軍を呼び出してデモ隊を逃げ出せないように包囲した後に自動小銃によって大量殺戮を行った(8月21日弾圧)。この武力弾圧に危機感を持った野党や国民は解職請求決議を求めて暴動やデモ活動が乱発し、10月8日事件によって内戦が勃発した。この混乱のうちに閣僚は逮捕され、また弾圧を主導したトゥワイ・ズュザ元首相はPMCF刑事裁判所に訴追され、人道に対する罪に値するとして懲役22年の判決を受けて政界を去った。再選挙によってタカン人の皇之 上水(タカマ ソラナ)首相による上水政権が発足した。今政権では文化省の人事が一新されパイグ人の夏巫力(xo1 tuk2 py)文化省大臣を中心にユエスレオネの言語保障政策を参考にした言語多元主義的政策を推進していくことを検討することになった。トゥワイ・ズュザ政権のアイル共和国では国家言語としてアイル語に一元化されていた公用語が多層的に決定されることになった。国公用語では標準アイル語、標準東島通商語、伝統文語を、国補助公用語では標準リパライン語を、島公用語として標準アイル語、標準パイグ語、標準タカン語、標準バート語が定められることになった。これによって公用語になったリパライン語によって難民たちは教育や行政を行うことが可能になったのであった。また、国歌は元々アイル語一言語のみであったが、それぞれ公用語で訳され、歌われるようになった。

【アイル語】

1.Sip'uine aika bowar.

Anaude nimutuma a

Atamuga hiyyanu

kaisa akia cauyau aimar!

【タカン語】

ai ki eka mo-lu

wa noi ja ija-lu.

ekamedu ja tuna

takameku ja cac-i. a!

【バート語】

ṣomadhí ha síbhabhau,

ṣomadhí ha aṭam kád.

káṇám rakk khakán síbha

woghitiná bhán sakká, á!

(一部公用語による国歌「冠光」)

5.5.2.2. ヴェフィス共和国における言語と社会

5.5.2.2.1. ヴェフィス共和国における言語政策

 ヴェフィス共和国の国民は標準ヴェフィス語を母語とするヴェフィス人が半数以上を占めている。しかし、国民の中には日常的には現代標準リパライン語やペーゲー・ド・ヴェフィス、東島通商語、ブルミエント・チャウデ語なども話されている。ヴェフィス・ブルジョア革命によってリパラオネ共和国が成立して以降、特定の民族語のみを国家語として取り上げる単一国語主義をヴェフィス共和国は継承していた。国内では標準語による教育が徹底されていることによってヴェフィス語の方言や変種等は殆ど見られない。PMCF内で最も外国語の平均的点数が低いという統計もあり、リパライン語を含め外国語に苦手意識を持つ人間も多い。ヴェフィス人コミュニティが国外にも点在していることから、2006年にヴェフィス共和国文化省長官ゲルディア・ド・エスタイティエ・ゲルタイディアを中心にヴェフィス文化とヴェフィス語を共有する地域及び国を主体とする国際機関ヴェフィス共同体(GVA)が設立された。ユエスレオネ政府などからは基本的にその言語政策の姿勢を批判されているが、ヴェフィス共和国は国家の分裂を招くとして少数言語の保護に反対している。

5.5.2.2.2. ブルミエント・チャウデ語の抵抗運動

 ブルミエント・チャウデ語はリパラオネ語族ヴェフィス語派に属する言語である。ヴェフィス共和国のマイヌシュ・ヴワ州で話される言語で三十五万人ほどに話される。ヴェフィス語の話者とは意思疎通が出来ないのにも関わらず、政府からはヴェフィス語のブルマン・ショート方言として扱われ公的な地位が存在しなかった。ヴェフィス共和国が成立して以降、マイヌシュ・ヴワ島では急速なヴェフィス化が進みブルミエント・チャウデ語を日常語として用いる者は高齢者に限られていた。ヴェフィス共和国の教育方針も方言や少数言語を子供の害と見做して話させないようにしていた。教育現場では方言札として木の板が首に掛けられる場合もあった。この板が掛けられた生徒に対する体罰も恒常化し、深刻な人権侵害を起こした。これは後のファルトクノア共和国の言語政策へも影響していくことになる。2003年にユエスレオネ連邦とPMCFが接触することになるが、当時多言語社会統合発展言語行政枠組に影響された言語保障の概念が連邦の政治的な潮流となっていたこともあり、ユエスレオネ連邦はマイヌシュ・ヴワ州に対するヴェフィス共和国の言語政策を強烈に批判した。ブルミエント・チャウデ語が言語保障を受けるべきという意識を持った話者たちは2004年にリナ・クルーダシエが中心となってブルミエント協会を設立し、教育面でブルミエント・チャウデ語を維持するための活動を続けて商業の場でも使われるようになり、かろうじてその衰退を食い止められるようになった。協会はヴェフィス共和国に対して公用語化の圧力を掛ける活動も行っているが、デュイン総合府で母語教育が回復した2025年以降も明確に公用語にはなっていない。

不思議の国のアリスの冒頭の比較

ヴェフィス語

ブルミエント・チャウデ語

Alicesé anfilaidèn fai voi pas varsé ĵouaut failaisé ne mait tinameis vies voi.

Oune, toai, si chailedou elfiaile var si elfieous pas le elfies var kurlais mait var anpaifaia failaisé ne voi.

<Mait, le elfies var fas fammioi failaisé?> Alicesé ficedos qaile voi.

<Var kurlais mait var anpaifaia failaisé ne las.>

Alisas anahahes hai baine pas blas jueinado hales nie mait hal tinamainde bies baine.

Ueniene, tuese, si anbai chalusende lhiella bl'anpaihai hales nie baine.

<mait, le lhiella bl'has hammiene hales?> Alisas hitses qaselle baine."

<Bla kalalis mait bl'anpaihai hales nie las.>

5.5.2.2.3. リパライン語化するヴェフィス語と抵抗意識

 ヴェフィス共和国とユエスレオネ連邦の国交が始まって以来、ヴェフィス語に同じリパラオネ語族に属するリパライン語から強く影響を受けたフェーデ・リネパリナイ(Faidais linaiparineit)という表現が成立した。ユエスレオネ連邦が市場経済を導入して以来、強力な連邦資本がヴェフィス共和国内に流入すると文化的にも強い影響を与えた。

リパライン語での意味の影響

リパライン語はヴェフィス語の単語を大量に輸入しているが、これが本来の単語に影響を与えている。

ヴェフィス語

本来の意味

リパライン語の影響

anfamias

収納する

政府が税金を受ける

→Anfarmia

anlyesais

火事

思いやり

→Anlyes

saisie

さいころ

→Cerxe

ヴェフィス語化したリパライン語

元々リパライン語だったものがヴェフィス語で翻訳借用されている。政治にまつわる表現が多い。

ヴェフィス語

本来の意味

リパライン語の影響

no var kakécails ichai

国を失って

難民・移民として

→Anknish

var jeaies alijeraile

戒律を教える者

宗教指導者

→tvasnarl'd kynte

wais kefiyeit

声のために(非規範的)

報道官

→lkurfen fao


5.5.2.3. リナエスト・オルス共和国における言語と文化

5.5.2.3.1. リナエスト・オルス共和国における言語政策

 リナエスト・オルス共和国はPMCFを設立し、アイル共和国とヴェフィス共和国の主張を調整しながら言語政策を推進してきた経緯がある。分散していたリナエスト人が念願していたリナエスト・オルス共和国ではその民族主義的性格が強くなっていた。ヤシェカ・セレニア運動に始まる純化運動は現代になって活発に主張されるようになったが、ユエスレオネ連邦との接触後はユエスレオネにおけるリナエスト語の標準化と調整していけるように進展した。国内での言語政策は保守派と革新派にニ分されることになった。

5.5.2.3.2. リナエスト言語政策革新派

 リナエスト・オルス共和国ではジュへーシェ・ユーヅニー・ライン、ユレイシア・アレスなどの社会言語学者を中心にリーサ・カクザの言語権を進展させ、国内の言語的多様性を保護するための主張を提唱した。過激な派閥ではアンハルティア・ド・ヴェアン・アンヴェハルの「言語のための新体制」を推進させて、現体制を変革させようと活動した。政府を通してリナエスト語の正書法改革に強い影響を与え、旧正書法を利用した本を書店で売らせないように検閲などが行われたが、表紙だけが新しい綴りで作られた本や正書法上で表記が変わらない単語のみを使う文体が確立し、一つの文学的ムーブメントとなった。リナエスト語族の言語を出来るだけ保護していこうとする姿勢は保守派の言語政策の姿勢と反発し、対立した。

5.5.2.3.3. リナエスト言語政策保守派

 ターフ・イェレウミヤのような保守派活動家を中心にリパーシェでリナエスト語を表記していたものをリナエスト文字へ戻そうとし、またディアスポラからコミュニティに戻ったリナエスト人によって大量に流入した借用語や複雑で複数の言語の体系が混ざった数詞体系を純化を目指した。ヤシェカ・セレニア運動におけるハースチウズナ・リェーツェスケウツィー・ビェールノイなどの10世紀以前の言語思想家の理想を現実にしようとする主張が叫ばれるようになった。独立国家戦争時代におけるナショナリズム的言語政策の影響を強く受けており、中央リナエスト語がリナエスト・オルス共和国の唯一の国語であるべきとして革新派と対立した。


付録

人名索引

ア行

アテニア・ド・スキュリオーティエ(Ĵestainia de Skyliautie)14, 15

アフリサザン・リーツ(Aflicasan.lirz)30

アレス・アタツァニアター(Ales.atazani’atar)6

アレス・リン(Ales.lin)7

アレス・フヅミ(Ales.fudumi)10

アレス・クラニヤ(Ales.klanija)12

アレス・ラネーメ・リハンカ(Ales lanerme lihanka)27, 28

アレス・デュイネル・エレン(Ales dyinel elen)31, 40

アレス・レヴィア・エルメネーフェアフィス(Ales levia elmenerfeafis)40, 41, 51

アレス・レヴィア・クラン(Ales levia klan)41

アレス・シュカージュ(Ales.Xkardz)50

アレン・クラン(Alen.klan)11, 12

アンハルティア・ド・ヴェアン・アンヴェハル(Anhartia de Vaian Anvaihar)66

ヴェルガナ・トゥワイ・ズュザ(velgana twaji-siusa)62

ヴェフィザイト・ヴェイザフィス(Vefisait.veisafis)42

ヴィヨック・イヴァネ(Viokk.ivane)28, 39

エスポーノ・ドーハ(Esporno.dorha)20

カ行

クァ・フォ・シリザフ(Kua huo cilisaf)6

コンダーファフィス・ファーヴィヤ(Kondarfafis.farvija)16

コンダーファフィス・クレーティヤ(Kondarfafis.klertija)19

コンダーファフィス・アルタフ(Kondarfafis.altaf)19

キャスカ・ファルザー・ユミリア(Kjaska falsar jumili'a)21

カリアホ・スカルムレイ(Kariaho.Sukarmrei)50

クントイタクテイ・アレン・ミリア(Kuntoitaktei alen mili'a)50

クントイタクテイ・ヴァルトル・クラン(Kuntoitaktei valtol klan)54

クロウン・ドゥ・トゥタイティエ・クロートゥハイト(Klaun de tousteitie klautousheitè)59

カーダン・ガートゥ・ヴォーギタイム・バートニーマシュ(kádan ghátu woghitaim bhátnímaṣ)62

ゲルディア・ド・エスタイティエ・ゲルタイディア(Gairdia de Essteitie gairteidia)64

サ行

スカースナ・トゥリオイユ(Skarsna.tuli'oiju)20

ジュヘーシェ・ユーヅニー・ライン(Šäwsä Údij Krain)23, 28

スクーラヴェニヤ・クラン(Skurlavenija.klan)30, 40, 42, 50

シャール・クラナント・ヌイビェルシャ・レーカ(Shar kranənt nöjbjersha reka)42, 43

ジルコディスナル・ガイリフィヤ(Silkodisnal.Gailifija)44

シェルケン・アスクランテシュレイユ(Xelken.askrantexleiju)55

ショー・トゥック・ピュ(xo1 tuk2 py)63


タ行

タカムア・セマムカ(Takamua.cemamuka) 6

ターフ・ナモヴァフ(Tarf.namovaf)21, 36

ターフ・ヴィール・イェスカ(Tarf virl jeska)23, 31, 32, 39, 44, 50

ターフ・テニェーキヤ(Tarf.tenierkija)30

ターフ・イェラファ(Tarf.jelafa)30

ターフ・フューザフィス(Tarf.fiursafis)31

ターフ・ヴィール・ユミリア(Tarf virl jumili'a)31, 40

ターフ・ヴィール・マヴィア(Tarf virl mavija)42

ターフ・セレズィヤ(Tarf.celesija)44

ドロワサン・ドゥ・ヴェフィサイティエ・ドロワヴェサン(Droisan de Vaifiseitie droivaisan)50

タカマ・ソラナ(Takama sorana)63

ターフ・イェレウミヤ(Tarf.jeleumija)66

ナ行

ニー・レイ(Kua Nirlej)19

ハ行

フローシア・ド・スキュリオーティエ(Flösĵia de Skyliautie)10

フィシャ・レシェール(Fixa.lexerl)10

ファフス・ザシミ(Fafs.sashimi)12, 13

フィシャ・リーサ(Fixa.lirca)17, 18

ハースチウズナ・リェーツェスケウツィー・ビェールノイ(Zĵazsciyczga Zlekcéskteytij Pelgoi)18, 66

フィシャ・カルティヤ(Fixa.kaltija)19, 21

フィシャ・トゥスティナフィス・フェレサファ(Fixa tustinafis felesafa)20

フェクネンシュティ・テイター(Feknenxti.tejtar)25

フィシャ・ステデラファ(Fixa.stedelafa)42

フィシャ・ユミリア(Fixa.jumili'a)44, 49

ビェールノイ・ザラーヴィヤ(Bierlnoi.salarvija)52

ホルティンギ・チェフルタ・ユルト・フルチ(Hortingi Cehurta Yurt Hurc)54

ヤ行

ユフィア・ド・スキュリオーティエ(Yfia de Skyliautie)10, 14

イェクト・ユピュイーデャ(Jekto.jpyjirdia)15, 17, 18

ユレイシア・アレス(Ülévysia.ales)43, 66

ラ行

レチ(Lech)14

リーサ・カクザ(Lirca.kakusa)23, 28, 39, 42, 51, 66

ララータ=ハフリスンターリブ(Raraata=HahurisnTaarib)24

レシェール・エガーディヤ(Lexerl.egardija)30

レシェール・ツァーメナフ(Lexerl.zarmenaf)30, 42, 50

ラヴィル・ド・エスタイティエ・ラタイハイト(Lavilè de Essteitie lateiheitè)31, 57

ルーナ・カピディ・マーナミッハ・ドゥーレディ(Luuna kaphidi maanamixxa suuledi)60

リアシェン・L・K・アリュース(Li'axen L. K. alös)61

リナ・クルーダシエ(Lina.kludasie)64

ワ行

ヴィヨック・ファルザー(Viokk.falsar)12, 13

ヴィヨック・エレーナ(Viokk.elerna)13


事象索引


[1] 燐帝字母研究史 - リパライン倉庫

[2] 燐声集 - 闇

[3] 東方教団 リパラオネ教の教派 - Undeerl

[4] 燐帝字母 - 燐字海

[5] Fafs falira Sashimi (2017)「ヴェフィス叙事詩『スキュリオーティエ』に関して」 ・Falira.lyjotafis編「ADLP機関紙『Dorylka』第一号」理語学会 pp.1-2

[6] Fafs falira Sashimi (2017)「ヴェフィス叙事詩『スキュリオーティエ』に関して」

[7] スキュリオーティエ叙事詩 - 悠里包括Wiki

[8] 西方の諸島における先住民の神秘的な生活とその文化について

[9] Falira.lyjotafis(2017)「ファイクレオネの文字史」Falira.lyjotafis編「ADLP機関紙『Dorylka』第一号」理語学会 pp.13

[10] 針谷 諒太, 益当 和智共訳『東島通商語入門』(東諸島共和国連合議会、2018)

[11] Falira.lyjotafis 「ファイクレオネにおけるクレオール言語に関する一考察」(『Semiannual Journal of Languages and Linguistics』Twitter Free University of Languages and Linguistics Press、2017年)

[12] ハタ王国 - 悠里総合サイト

[13] Jekto.vatimeliju(2018)

[14] ラネーメ民族党 - たぬきWiki

[15] Jekto.vatimeliju, 「リパライン語の複合語について考察する」

[16] Fafs F. Sashimi(2018), 古典リパライン語入門, p.4

[17] Falira.lyjotafis(2017)