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レヴェンの生涯

このページではレヴェンの生涯について述べる。

幼少期

1839年11月3日にラネーメ共和国はラメストに生を受ける。ラネーメ系リパラオネ人であったが、皇論などのパイグ文化に傾倒する両親や親戚の影響でラネーメ人としてアイデンティティを育んだ。

大学時代

レヴェンは法学を専攻するか史学を専攻するか悩んでいた。そのためどちらの道に進むとしても役に立つと考えて、教法学やラネーメ法制などの理論史に関する講義を多く履修していた。

前期レヴェン前夜

民主主義的法制を追求する当時最先端の法学を学んだレヴェンは、レシュト紛争期などの近代の戦争期において、「緊急時局」の名の下に恣意的な法運用が成され、反逆勢力と目された人間が弾圧されたこと、そして一般民衆への圧迫も強まったことに注目し、恣意的な法運用を防ぐことが民主主義を体現した法制の必須条件であると見做すに至った。その根底に流れる公権力への不信は年を追うにつれ次第に表に現れることとなる。

前期レヴェン

上記の内容を議論した学位論文『毒薬としての恣意性』が評価され、レヴェンは1865年にヴェフィス国立研究院大学に招待された。レヴィンは早速1866年に論文『法制からの恣意性の追放に向けた試論』を発表するものの、運用レベルの議論に終始しており有益でないと評価された。そこで翌67年に『不能性による法運用のための小論』において、「法の形態そのものに制限を加えることで恣意的な法運用を排除する」という議論を展開した。これは一定の評価を得たが、実際にどのような「不能性」を立法に課すべきかという課題を残す結果となった。

この問題は1869年の論文『予約の法学』によって部分的に解決した。そのなかでレヴェンは「罪を問うための権限は、立法によって予約しなければならない」「ここで述べる予約とは前もって定められた法典のことである」と罪刑法定主義と事後法禁止の原則(の一部)に言及している。そして1872年に『3つの不能性』において「罪に問われた者に成しうることも予約されてなければならない」「本来、人の罪を認定しそれに罰を課すことは、不断の疑いを乗り越えた先にようやっと可能な大事業である」と述べ、不能性理論(現代の用語でいうファイクレオネ近代法学三原則)を提唱した。

ちなみに、この刑罰が大事業であるという概念は『試論』において既に現れているが、『試論』においては運用によって大事業を正当に大事業と扱う立場をとっていたのに対し、『3つの不能性』では罰を大事業と見做さない法をそもそも禁じるという立場をとっている。この転換を本質的なものとして、1872年をもって推定無罪原則の確立と見做すのが法学史の一般的な立場である。

追放事件まで

法学・法哲学においては『3つの不能性』は高い評価を得たが、伝統的教法学者にはリパラオネ教における罪の概念とその実社会への適用を害するものだとの批判を受けた。1876年、レヴェンは書籍『不能性理論の擁護』において、立法と法運用は人間が行うものであるという要請から、より安全・公平な法制を求めると自然と不能性を立法に課すことになると反論した。この議論は本質的には『3つの不能性』によるものと変わらないが、より詳細に、より厳密に、より歴史学的な実証主義に立って議論された。以降のレヴェンは、伝統的な勢力による反駁を嫌って明らかに過剰な理論武装を行うようになる。

『擁護』の執筆と同時に、レヴェンは教法学を含めた伝統的な法の基礎づけが民主主義的な法制の発展を阻害してきたのではないかと考えるようになり、現行法の完全撤廃を目的とした政治活動を行うようになる。その結果として1878年にヴェフィス国立研究院大学を追われることとなる。その理由は「控えめに言って急進的、有り体に言って破壊的」なレヴェンの政治的立場が「ヴェフィスの繁栄の学問的な砦たる」ヴェフィス国立研究院大学に相応しくないからだという。同年レヴェンは天神大学へ移り、伝統的な法の基礎づけについて不能性理論の立場から批判を展開していくこととなる。

後期レヴェン

天神大学に移ったレヴェンは「教法学批判」の執筆に着手した。これは『擁護』とは異なり、リパラオネ教法学をリパラオネ教を不当に権力の安定に利用する試みとして積極的に批判するものであり、3つの論文と2巻の書籍よりなる。誤解されがちなことだが、レヴェンはリパラオネ教自体を批判したのでなく、リパラオネ教を不能性の要請なしに法制に適用し圧政機構として組み込んだことを批判したのである。現代でこそ急進派を中心によく用いられるこの「圧政機構」という語は、「教法学批判」を構成する論文の一つ『圧としての神』において登場したもので、同論文では「共同体一般の幸福の実現から離れ個々の人間を圧迫するようになった公権力に付随する機構一般であり、しばしば権力層の不当な優遇を含む」と説明されている。また1882年より「水器論批判」「心圧論批判」として知られる一連の論文・書籍を次々と発表した。こちらも同様に水器論や心圧論を水器論に影響された非常に緻密な議論によって「不穏な圧政機構の設計」と批判するものであり、民会による自治の支持と「責任」という概念を構成する原理の探求が特徴的である。

この着想を批判の文脈なしに基礎づけるため、彼は1886年に書籍『法の権威』を執筆、また「法制が前提してよい文化は強く制限される」という「普遍主義」を提唱し、その観点から宗教的な法の基礎づけを批判する論文『局所的基礎としての宗教』を発表した。1887年3月5日、彼は今までに法が満たすべきと提唱した要請を改めて基礎づける論文『安定した法の原理』を執筆中に死亡した。享年47。死因は、自らの肉体の衰えを顧みない、あまりに旺盛な執筆活動による過労だという。

逸話・人物